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袁術、揚州攻略に着手し劉繇と激戦に・・
袁術が調子に乗り、揚州を完全攻略しようと動きだすと、劉繇も腹を括り樊能(はんのう)と張英(ちょうえい)を長江の川岸に配置して、袁術との徹底抗戦の構えを取ります。そこへ、孫賁、呉景が攻めよせますが、今度は樊能と張英が撃退、破れた孫賁と呉景は歴陽(れきよう)に駐屯します。怒った袁術は、揚州刺史を新しく任命して、孫賁、呉景に樊能と張英を撃退させますが、樊能と張英はしぶとく守り、一年経過しても破る事が出来ませんでした。その間に漢の朝廷は、劉繇を揚州牧として任命し、振武将軍の地位を与え、劉繇軍は数万になっていました。
どうして劉繇軍は強かったのか?
こうして見ると、劉繇の配下程度に手こずる袁術軍の不甲斐なさに「な~んだ、さすが袁術の手下、大した事ないじゃん」とダブルで鼻をほじる人もいるかも知れません。
しかし、実はこの頃、劉繇の下には猛将、太史慈(たいしじ)、孫邵(そんしょう)是儀(ぜぎ)を始めとする同郷の人材や、徐州の陶謙(とうけん)と合わなくなり流れてきた鑑定人間キョショーンこと許劭(きょしょう)そして、薛礼(せつれい)笮融(さくゆう)といった一流の人々が流れ込んでいたのです。
特に、太史慈は、積極的に献策したのですが、劉繇は、キョショーンが、あまり太史慈を評価しなかった事を気にして太史慈を軽く見ていて、その才能を存分に使う事が出来なかったのです。そして、まさに許劭を気にし過ぎた事で袁術の反撃を許す事態になってしまいました。
袁術、孫策投入、撃破される劉繇・・
西暦195年、膠着状態が続く、江東の戦線に小覇王、孫策(そんさく)が投入されます。孫策は、樊能と張英を破り膠着状態を破壊、劉繇は持ちこたえられず、丹徒に走り、長江を南に渡って豫章(よしょう)に至り、彭沢(ほうたく)に駐屯します。ああ、残念、こうして孫策に破れた劉繇は、二度と失地回復する事が出来ず、没落の道を辿る事になるのです。
部下に裏切られ撃退するも、劉繇病死・・
献帝春秋によると、豫章郡では、朱皓(しゅこう)と諸葛玄(しょかつげん)が太守の地位を争っていました。そこで、劉繇は朱皓に味方し、西暦197年、笮融(さくゆう)に西城の住民を扇動させ、諸葛玄を殺害、朱皓を太守の地位に就けました。ところが、先に豫章城に入った笮融は、朱皓を殺害して大守を自称し、暴政を敷いた為に、劉繇は豫章に攻め込み、一度は撃破されたものの、二度目には笮融を破りました。笮融は山上に逃亡、途中で民に殺害されます。劉繇はようやく豫章城に入りますが、すでに病気になっており、間も無く死去、豫章も孫賁に奪われてしまいます。
三国志ライターkawausoの独り言
劉繇の亡骸は意外な事に、劉繇を没落させた孫策によって丁重に葬られ遺族へと返還されました。それは、会稽郡の大守だった王朗(おうろう)が孫策に手紙を送り、
「劉繇は、孫家を憎んだのではなく、袁術との行き違いで、意図せず敵対しただけであって恨んではいけない」と諭したからだと言われています。
確かに、最初に仕掛けてきたのは袁術で、劉繇は朝廷の思惑で揚州刺史にされただけでしたからね・・そういう意味では、袁術のジョーカーぶりに振り回された被害者の一人だとも言えるかも知れません。
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