後漢末期の時代は政治の乱れによって土地や人民が荒廃したせいで張角率いる黄巾党が後漢朝廷に対して大反乱を起こします。この黄巾党は教祖張角を主導者とした宗教団体でした。そして中華全域が戦乱に巻き込まれることになると、現世に救いを求められない人々は宗教にのめり込んで行くことになります。
漢中に割拠していた張魯(ちょうろ)率いる五斗米道も宗教団体として、人々の心を掴んで多くの信者が誕生しておりました。そんな荒れ果てていた中国に仏教を利用して人々を集めていた群雄がおりました。その名を笮融(さくゆう)といいます。
この記事の目次
いつごろから中国に仏教がやってきたの
中国に仏教が伝来されたのは前漢の末期~後漢初期だとされており、インドから西域の諸国を経由して中華に教えがやってきます。後漢の政治を乱して乱世のきっかけを作った霊帝の時代には、仏教の経典の翻訳がされていたそうです。しかし仏教の経典の翻訳がされていてもごく一部の人しか知ることができず、民衆達は正確な仏教の情報を理解することなく、なんとなくの感覚で仏教のような事をしていたのではないのでしょうか。正確に仏教というものを理解しない状態で信仰していた民衆に目をつけた人物がおりました。
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徐州の海運業を営む
笮融は江南から北上して徐州の陶謙(とうけん)に身を寄せます。彼はこの時数百人もの人数を率いており、陶謙は彼に徐州一帯の物流を任せます。笮融は陶謙からこの仕事を任されると元々数字に強く経済に明るいことが幸いして、仕事は順調に進んでいきます。彼はこの仕事を行っている際小豪族や地方の群雄から多くの貢ぎ物が、陶謙の元へ送られていることを知ります。
すると彼は陶謙へ届けるはずの荷物を途中でちょろまかして自分の懐に入れます。こうして数年間ちょろまかしてきた物資や金は膨大なものになり、彼はこの貯めてきた物資を使ってあることを思いつきます。
仏教寺院や仏像を建立
笮融は陶謙に送られるはずの贈り物をちょろまかして貯蓄してきた物で、仏教寺院や仏像を建立します。仏教寺院は非常に大きく3000人もの人々を収容することができ、ここに泊まるために必要なことはたった一つです。その必要な事とは「毎日教典を読むこと」だけです。そのため近隣の村や街の人々はこの仏教寺院の噂を聞いて多くの人びとが集まってきます。
1万人以上の人々に振舞う
笮融は灌仏会(かんぶつえ=お釈迦様が生まれた日)には、寺院の周りに多くのゴザを敷いて酒やご飯を無償で提供しようと考えます。そしてこの噂を聞いた近隣住民たちは大量にこの仏教寺院に集まり酒食を振舞われたそうで、集まってきた人数は1万人以上と言われております。そしてこの行いは当時あまり流行っていなかった中国仏教が広まる下地を作ったとされており、中華仏教を広めた貢献者としてその名を残すことになります。
徐州を離れる
笮融はこうして仏教という信仰の力を借りて多くの人数を集めることに成功します。その後も続々と笮融の噂を聞いた民衆達が集まることになり、彼の元には一万人以上の仏教の信者が集まることになります。その後徐州は陶謙のミスによって曹操のオヤジが盗賊らによって殺害。
激怒した曹操は軍勢を率いて陶謙に復讐するために徐州へ攻撃を仕掛けます。笮融はいち早くこの情報を手に入れて徐州にとどまり続けることに危険を感じ、さっさと逃亡。
丁重に扱ってくれた太守を殺害
笮融は徐州を逃亡して広陵へ身を寄せます。この地の太守となっていた趙昱(ちょういく)は笮融がやってくると、大いに彼をもてなします。笮融は自分に良くしてくれた趙昱を殺害します。そしてこの地に蓄えられていた兵糧と兵を強奪した後に広陵を後にします。仏教は人を殺さない事を教えとしているのですが、笮融はそんな教えを無視して仏教徒を率いて乱世を生き抜いて行こうと考えておりました。
江南の大勢力であった劉繇に身を寄せる
笮融(さくゆう)は広陵太守であった趙昱(ちょういく)を殺害して兵糧と兵士を奪った後、江南に逃亡します。そして江南において大勢力として知られていた名門の出身である劉繇の元へ身を寄せます。こうして大勢力の庇護してもらいながら財力と兵力を少しずつ蓄えていた笮融ですが、彼にとって思いもよらない事態が発生します。
江東の小覇王との戦い
袁術から独立するため孫策は彼から1千の兵隊をもらい揚州へやってきます。途中で友達であった周瑜(しゅうゆ)と合流したり豪族達を味方に付けながら、兵力をましていきます。その後孫策は曲阿に勢力を持っていた劉繇に対して攻撃を開始します。劉繇軍も孫策が攻撃を仕掛けてきたことを知ると黙っているわけにいかずに、孫策軍を打ち払うため軍を出陣させます。笮融も劉繇に協力して孫策軍を打ち払うために戦へ向かいます。
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孫策の作戦に引っかかってしまう
笮融は仏教徒の兵隊を率いて孫策軍と対峙しますが、一戦しただけでコテンパンにやられてしまいます。その後笮融は孫策軍と戦うことをせず、近辺にある砦に籠って孫策軍と激戦を繰り広げます。この砦の攻防戦の最中、孫策に弓矢が当たったと降伏してきた孫家の兵隊から情報を得ます。すると彼は部下に兵をつけて退いていった孫策軍へ攻撃を仕掛けさせますが、孫策は生きておりこの部下は大敗北して笮融の元へ戻ってきます。笮融は孫策軍に敗北したことがきっかけでこの砦を放棄して、曲阿に篭っている劉繇と合流します。
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曲阿陥落
劉繇軍は孫策軍の勢いがすごく各地で敗北してしまい、本拠地であった曲阿(きょくあ)も孫策に取られてしまいます。劉繇や笮融らは江南から逃亡してまだ群雄が手をつけていない豫章(しょしょう)近辺に駐屯します。
ふたりの豫章の太守
豫章は状況が混乱している土地でした。この地にいた豫章の太守であった周術(しゅうじゅつ)が亡くなると、荊州の実力者であった劉表(りゅうひょう)が諸葛玄を豫章太守に任命して派遣してきます。ついでに三国志のプチ情報として、この諸葛玄は孔明の叔父です。そしてもうひとり曹操が豫章の太守として朱皓(しゅこう)が赴任。こうして二人の豫章の太守が存在することになるのですが、孔明の叔父である諸葛玄が朱皓よりも少し早く豫章城に入城することになります。。
朱皓を援助するように命じられる
笮融は劉繇から「朱皓を援助して諸葛玄を豫章から追い出してこい」と命じられます。彼は仏教徒らを連れて豫章城へ向かいますが、この城にいたはずの諸葛玄は劉繇と朱皓が連合して攻撃を仕掛けてくることを知ると、さっさとこの城を捨てて近辺の城へ逃亡しておりました。そのため豫章城をめぐって攻防戦は行われずに、無血で入城することができました。
豫章太守を殺害して独立を図る
笮融は朱皓と共に豫章城へ入城すると彼はあることを思いつきます。その思いつきは朱皓を殺害して劉繇から独立しようとの考えでした。彼はこの考えを実現するために朱皓を殺害して豫章城を入手。ついに独立することに成功した笮融ですが、劉繇は自分が援護した朱皓を殺害して豫章城を強奪した笮融を攻撃するべく、軍勢を出陣させます。
仏教徒の無念の最後
笮融は劉繇がいつ攻撃を仕掛けてきてもいいように、防備を固めます。そして劉繇軍が攻撃を仕掛けてくると必死に抵抗して、劉繇を一度追い払うことに成功します。一度敗北した劉繇は激怒し、諸将や兵士らを叱咤して猛攻を仕掛けます。この火の出るような攻撃の前に笮融は抵抗することができずに、豫章城を放棄して撤退。その後彼は豫章城近辺の山中へ逃げ込みますが、落人狩りを行っていた農民らの攻撃に遭って呆気ない最後を迎えることになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
中国に仏教を広げる基礎作りを行ったとされている笮融ですが、果たして彼は本当に仏教を理解した上で寺院や大仏などを建立していたとは思われません。当時兵を集めることは非常に大変であり、曹操も董卓討伐戦の戦では兵力の無さを歯噛みして悔しがっておりました。笮融は自らが仏教の信者になることで仏教信者を集めて自らの兵隊として使おうと考えた為に、寺院や仏像を建立して人々を集めていたのではないのでしょうか。このような邪な考えを持っていた人物が仏教の先駆けとして歴史に名を残したのがなんとも不思議でなりません。
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