小覇王、孫策(そんさく)の無二の親友であり孫策の江東・江南の平定に
尽力したばかりか赤壁の戦いでは、実質上、曹操を破った呉の重鎮である
美周郎、周瑜公瑾(しゅうゆ・こうきん)
しかし、そんな彼も、劉備(りゅうび)を警戒し先に蜀を獲ってしまおうと
計画した矢先、南郡攻略で負った矢傷の為に36年の人生を閉じます。
呉になみいる名将の中でも一際、光彩を放った周瑜ですが、
残された一族は彼の死後、どうなってしまったのでしょうか?
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周瑜を継いだのは、長男、周循
西暦210年に周瑜が死ぬと、その家督は長男の周循(しゅうじゅん)が継ぎました。
周瑜には、二男一女がいるようですが、兄弟の母が小喬(しょうきょう)かは不詳です。
ただ、他に妻の記録がないので、小喬が母である可能性は高いです。
この周循は、雰囲気に周瑜を思わせるものがあったようです。
恐らく、周瑜に似て、堂々たる美丈夫だったのでしょう。
周循は、将来を嘱望され孫権の娘である大虎(だいこ)孫魯班(そんろはん)を妻にして孫家と縁戚になります。
周循は、騎都尉を拝命しましたが、西暦229年に死去します。
早く亡くなった為に、子孫は無く、ここに周瑜の嫡流は絶えます。
寿命まで父に似てしまったのでしょうか・・
周循の早死にで後を継いだ周胤
周循の早死にの為に、家督は弟の周胤(しゅういん)が継ぐ事になります。
この周胤も、孫権の娘を妻にして勢い盛んで興業校尉になって、
1000名の兵を率いて公安に駐屯しています。
西暦229年に、兄の家督を継いで、都郷侯になりますが、
素行が悪いとして孫権の怒りを買い、罪を得て廬陵(ろりょう)郡に流されます。
それから、10年、周胤は許されず、流刑されたままでしたが、
たまりかねた、諸葛瑾(しょかつきん)と歩騭(ほしつ)は、
周瑜の功積を上奏し、周胤を赦免してくれるように孫権に頼みますが、
孫権は、なかなか許しませんでした。
しかし、諸葛瑾と歩騭は再度上奏し、それに朱然(しゅぜん)と
全琮(ぜんそう)も賛同し、孫権は、渋々、周胤を赦す事にします。
晴れて都に戻れると思われた周胤ですが、この頃病を得て病死します。
子孫の記録はないので、恐らく居なかったのでしょう。
皇太子、孫登の妃になった周瑜の娘
周瑜には娘もいました、一説には名前を周徹(しゅうてつ)と言うようです。
周瑜の死後に、呉郡に住んでいましたが、西暦225年、孫権の命で、
17歳になっていた皇太子、孫登(そんとう)の妃になっています。
妃であれば、年齢を大体合せると思うので周徹は15~17歳位で、
周瑜の最晩年の娘になるかも知れません。
まあ、若死なので最晩年と言っても、30代の前半なんですが・・
母が、あの小喬で父が周瑜であれば、さぞかし美しい姫だったでしょうが
結局、彼女は孫登の子供を産む事なく、若くして死んだようです。
美人薄命と言うべきか、ともかく、こうして周瑜の血筋は、
完全に途絶えてしまう事になります、寂しい・・
周瑜の兄の子、周峻
周瑜には兄がいて、その兄の子の周峻(しゅうしゅん)も優秀な人物でした。
彼も周瑜の功積で兵1000名を与えられ、陸遜(りくそん)の指揮下で活躍します。
その後、周峻が死ぬと、その息子の周護(しゅうご)を将として立ててくれるように
全琮が上奏します。
ちなみに全琮が、周護を推すのは、彼の妻が再婚した孫魯班だから
そういう理由だと思われます。
しかし、孫権は、それを許さず、
「周瑜の功積は忘れたわけではないが、聞く所では、
周護は素行が悪く将にしたら不都合だ」
と言って、ついに取り上げませんでした。
三国志ライターkawausoの独り言
このように、周瑜の二男一女は、若死に、素行不良による流刑により、
呉においては、大きな功績を残す事が出来ませんでした。
それ以前に、おそらく孫権は、呉の建国におおきな手柄があった
兄の重臣だった周瑜を内心では良く思っておらず、その子孫が政治の中枢に加わるのを
出来るだけ排除しようとしていたフシがあります。
周瑜が没してから、時間が経過するほど、その子孫に対する扱いが
厳しくなるように見えるのは、その原因が大きいかも知れません。
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