鳳雛(ほうすう)と呼ばれ、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)と並ぶ
天下の大軍師として知られる龐統士元(ほうとうしげん)。
劉備(りゅうび)の蜀獲りに多大な貢献をした彼ですが、
活躍を期待された最中、落鳳坡(らくほうは)で三十六歳の非業の最期を遂げます。
では、その後、龐統の一族は、どうなってしまったのでしょうか?
今回は知られざる龐統の死後の一族のドラマを紹介します。
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龐統同様の毒舌を発揮して左遷されて死んだ息子龐宏
余り家族の臭いがしない龐統ですが、実は子供が一人いました。
その名を龐宏巨師(ほうこう・きょし)と言います。
生没年不詳ですが、龐統死後に家督を継ぎました。
蜀漢の末期に活躍しましたが、父同様に飾り気がなく
率直な意見を好み、よく人物評を行っていたようです。
しかし、人物の長所を褒めるのが基本だった父、龐統とは違い、
龐宏は、蜀漢で権力を握っていた陳祇を下に見て遠慮なく批判していた為に、
陳祇(ちんぎ)に疎まれて出世出来ず、涪陵(ふりょう)太守に左遷され、
その地で失意のうちに病死しました。
孔明が存命中であれば、人物批評程度で左遷は無かったかも知れませんが、
すでに腐敗しつつあった蜀漢では自由な発言は難しかったようです。
記録には、龐宏を継いだ人はいないので、ここで記録は途絶えています。
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龐統には弟がいた、魏に降伏して大守に上った龐林
龐統には、弟にあたる龐林(ほうりん)という人物がいました。
彼は、荊州の治中従事(じちゅうじゅうじ)に就いていましたが、
夷陵(いりょう)の戦いで、劉備と孫権(そんけん)が戦争状態になると、
黄権(こうけん)の配下として蜀軍として戦います。
しかし、戦争は劉備の大敗、黄権は逃れる事が出来ず、
やむなく、魏に投降し、龐林もそれに従いました。
曹丕(そうひ)は黄権同様に龐林も重用して列侯に封じて、
その階級は、鉅鹿(きょろく)太守にまで昇進したと言われています。
曹丕の引きがあるとはいえ、人材豊富な魏で大守に上るのは、
並大抵の事ではないので、龐林も兄程ではないにしても、
優れた才能を持っていたのでしょう。
魏に降った事で妻と再会できた龐林
龐林の妻は、習禎(しゅうてい)という名士の妹でした。
習禎は、余り知られていませんが、軽妙洒脱な人物で、
その名声は龐統に次ぎ、あの白眉の馬良(ばりょう)よりも上だったようです。
しかし、龐林と妻が結婚してしばらく後に、荊州牧の劉琮(りゅうそう)は、
重臣、蔡瑁(さいぼう)の勧めで、あっさりと曹操(そうそう)に降伏してしまいます。
荊州は大混乱に陥り、大量の難民が発生します。
曹操には、徐州大虐殺の悪名があって恐れられていたのです。
離脱のドサクサで妻は荊州に取り残され、離ればなれになってしまいます。
龐林は、劉備に付いて襄陽から、南へ去り、やがて益州に渡ります。
孤立無援になった龐林の妻ですが、そのような中でも再婚もせず、
貞節を全うし、残された一人娘を十数年、女手一つで養育していました。
そして、西暦222年、夷陵の戦いで破れて、魏に投降した龐林と妻は、
実に十数年振りの劇的な再会を果たしたのです。
曹丕は、龐林の妻をあっぱれな貞女と褒め称え、
家具や衣服を与えて、その苦労に報いたという事です。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は、龐統の死後の一族について調べてみました。
息子の龐宏は、父に似て、毒舌家として育ち、実力者陳祇を批判して
出世を阻まれるなど、ああ、自由人だなと思います。
一方の龐林は、兄のような目立つ所はないものの、
数奇な運命により、黄権と共に魏に降る羽目になっても、
しっかりと重用され、鉅鹿太守に上るなどは、才能の一端が見えます。
そして、曹操の荊州侵攻によって生き別れになった妻と一人娘との
十数年ぶりの再会など、兄同様のドラマチックな人生を送っていると
言えるのかも知れませんね。
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