魏の忠臣として活躍した夏侯淵(かこうえん)。
彼は漢中の戦いで討ち取られてしまいますが、彼の一族は生き残ります。
彼の一族の中でも優秀であったのは夏侯覇(かこうは)でしょう。
彼は魏の夏侯一族の中でも軍事能力は特筆すべきものがあり、
蜀軍を相手に活躍しておりましたが、一族が司馬懿に殺害されてしまったため、
自らの命に危険があるかもしれないと考えて蜀へ寝返ります。
蜀でも魏軍相手に戦い続け蜀の将軍の中でも重宝され、車騎将軍を与えれれることになります。
そんな夏侯淵の一族は三国志が終焉した後、晋の国へ組み込まれていたと思われますが、
一体どうしたのでしょうか。
色々と調べていった結果、夏侯淵の一族はなんと皇帝を生んでいることが判明しました。
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夏侯覇、逃亡後も魏に仕える
夏侯覇は一族の夏侯玄(かこうげん)が処断されてしまったことを知って自らの命に危険が、
迫っていることを察知。
そのため彼は魏を捨てて蜀の国へ逃亡します。
さて彼は魏を逃亡して蜀へ亡命してしまいますが、
彼の一族は魏で処断されることなく生き延びておりました。
一族が処断されなかったところを見るともしかしたら司馬懿は、
夏侯淵の一族には一切処断するつもりはなかったのではないかと
考えたくなりますがどうでしょうか。
魏の夏侯淵の一族は官職に就く
夏侯覇逃亡後も魏の国内で生き延びた夏侯淵の一族。
その中でも夏侯覇の弟の長男である夏侯荘という人物が晋の時代にまで生き延びており、
彼は淮南太守へ就任しております。
彼の娘に聡明な娘が一人いました。
彼女の名は光姫(ひかりひめではなく、こうき)と言います。
彼女は琅邪王(ろうやおう)であった司馬伷(しばちゅう)の目にとまり、
彼の息子と結婚させることに決めます。
司馬伷の息子と光姫は仲が良好であった様で、一人の男の子を産むことになります。
光姫の息子がなんと・・・・
光姫は男の子を産むと睿(えい)と名づけます。
司馬睿(しばえい)と名付けれた男の子はすくすくと育っていき、
父が亡くなると琅邪王を継ぐことになります。
しかし彼が琅邪王になった頃晋の国はボロボロでした。
さらに各地の司馬家の王が争った「八王の乱(はちおうのらん)」や異民族が中国内部へ侵入した
「永嘉の乱(えいかのらん)」によって事実上司馬家の晋は滅亡してしまいます。
この時琅邪王であった司馬睿は永嘉の乱が起きる前に、
琅邪王氏の俊英である王導の進言によっていち早く江南へ逃げて、
呉の首都であった建業へ移ります。
この地で彼は軍事力を養いながら内政に励み、永嘉の乱によって晋が滅亡してしまうと
彼は建業で琅邪王氏の王導や王敦、諸葛恢らの協力を得て東晋を建国。
そしてこの司馬睿こそ東晋初代皇帝である元帝となるのです。
という事は夏侯淵の一族である光姫との間に生まれた司馬睿は夏侯一族の血を引いている
人物であること言うことです。
三国志ライター黒田レンの独り言
上記の内容にさらに付け加えると司馬伷の奥さんは諸葛誕の娘であり、
諸葛靚(しょかつせい)のお姉さんでした。
すると司馬伷の息子がもし諸葛靚のお姉さんの実子であればすごいことになりませんか。
諸葛一族の血と夏侯一族の血が混じった俊英が司馬睿ということになり、
彼を助けたのはキングダムの王賁の血族と諸葛誕の孫である諸葛恢達です。
またもうひとつだけ付け加えるならば呉の猛将である甘寧(かんねい)の孫も東晋に参加して、
活躍しておりこの東晋王朝には三国志の名将たちの末裔に加えて、
キングダムの王賁の家系が混じっており、
歴史好きにはなんとも魅力的な王朝であることがわかると思います。
参考文献 岩波書店 中国人物列伝 井波律子著など
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—