河北の覇者として君臨していた袁紹(えんしょう)。
そして河南の地のほとんどを制圧していた曹操(そうそう)。
両者は官渡の地で死力を尽くしてぶつかりあい曹操が勝者となるのですが、
官渡の戦いが始まる直前に曹操は二人の人物に袁紹と自らの勢力を比較させております。
今回は官渡の戦い間近に行われた曹操と袁紹の比較を行い、
袁紹軍と戦うことに慎重論を唱えていた人物と積極的に戦うべしと唱えた
曹操軍のふたりの人物にスポットライトを当ててみたいと思います。
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慎重論と積極論
河北を統一した袁紹(えんしょう)と河南を統一した曹操(そうそう)。
両者は天下の覇者を決めるべく軍備を整えており、
いつぶつかってもおかしくない状態にありました。
そんな中曹操軍では両者を比較して、袁紹と戦うことは控えるべしと唱える慎重論と
戦機を逸することなかれと説く積極論を代表する人物が二人居りました。
一人は孔子の子孫として天下に名声を得ていた孔融(こうゆう)と
曹操から「我が子房(しぼう=前漢の高祖劉邦の軍師張良)」と呼ばれた荀彧(じゅんいく)です。
「袁紹軍に勝つのは難しいでしょう」by孔融
ある日曹操は孔融から進言を受けます。
孔融は「我が軍と袁紹軍を比較した際、領土の点で袁紹軍に有利であり、
兵力についても袁紹軍のほうが膨大な兵力を擁しております。
また知略面でも田豊(でんぽう)・沮授(そじゅ)らが袁紹へ的確な進言を行い、
兵を率いる将軍達には二枚看板と呼ばれる文醜(ぶんしゅう)・顔良(がんりょう)などの
勇猛果敢で指揮に長けた将軍達がおります。
これら領土・文武面を我が陣営と比較した場合、
とても袁紹軍と正面からぶつかって勝つことは難しいと考えます。」と曹操の前で発言。
曹操は苦い顔をして孔融の話を聞いておりました。
「袁紹軍が我が軍に勝つのは不可能でしょう」by荀彧
荀彧は曹操から孔融の発言を聞きます。
すると荀彧は曹操へ「殿。戦機は熟しつつあり、孔融殿の進言を取り上げるのは宜しくないでしょう。
まず領土の点では袁紹の方が広大な領土を持っており、
兵数も多いですが、有効に活用することができないでしょう。
田豊・沮授の進言が的確であるのは間違えないですが、
袁紹が優柔不断なので彼らの進言を取り上げることはないでしょう。
また文醜・顔良の将軍は勇猛果敢であるが匹夫の勇であり、
将軍として決断に欠けていると言えるのではないのでしょうか。
これらを総合すると袁紹軍が我が軍に勝つことは不可能であると考えます。」と述べます。
この発言を聞いた曹操は大いに喜びます。
そして結果は荀彧が言った通り田豊は官渡の戦いの前において進言を行いますが、
袁紹に捕らえられてしまい彼の進言を採用することはありませんでした。
また沮授は袁紹に度々進言しますが採用されることなく
戦場においてけぼりを食らってしまいます。
将軍である顔良は客将として曹操に味方していた関羽に討ち取られてしまい、
文醜は曹操の罠には嵌って亡くなってしまいます。
その後官渡の戦いでは袁紹軍は内通者である許攸(きょゆう)から情報で、
鳥巣の兵糧庫を攻撃されてしまい、兵糧が無くなったことがきっかけで敗北することになるのです。
まさに荀彧の予想通りの結果に曹操軍と袁紹軍の戦いは終わってしまうのです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
孔融と荀彧は曹操軍と袁紹軍の比較をこのような評価を下しており、
結果は荀彧の予想通りの結末を迎えることになります。
この比較論は曹操軍の様子を知る上で大事なことであると思います。
それは比較的に言論の自由が確保されていたことです。
孔融の慎重論を聞いて曹操が激怒して処罰しなかったことがそれを物語っております
(しかし孔融は曹操を批判し続けて亡くなるのですが)。
普通に考えれば袁紹軍と曹操軍の兵力面や領土面で大きな差が開いているのに、
このような慎重論を決戦が近づいているときに言えば、処罰されてもおかしくないでしょう。
それなのにも関わらず一切お咎めがなかったのは言論の自由が確保されているからではないかと
考えるのですが、皆さんはどう思いますか。
参考文献 講談社 乱世の英雄 尾崎秀樹著など
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