はじめての三国志では、タフな狼中年の評価が固まりそうな劉備(りゅうび)。
そんな彼が、蜀攻略を手伝おうと言ってきた孫権(そんけん)に嘘をつき、
援軍を断っていたという新しい事実が発覚しました。
その言い分たるや、極めて抜け抜けとしているので、ここで紹介しましょう。
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この記事の目次
孫権が劉備に、蜀を一緒に獲ろうと持ちかけるが・・
赤壁の戦い以後、劉備は荊州南郡に地盤を固めて孫権の脅威になっていきます。
最初は傭兵隊長程度に思い、軽く見ていた孫権は、今更ながら劉備が、
曹操(そうそう)に劣らない梟雄である事を感じ、妹を与えるなどして懐柔していました。
そんな孫権、一刻も早く劉備に荊州を出て行ってもらいたいので、
益州の劉璋(りゅうしょう)を共に滅ぼさないか?と共同作戦を持ちかけます。
蜀を独り占めしたい劉備は、もっともらしい言い訳を考える
しかし、ゆくゆくは単独で蜀を獲りたいと考えていた劉備は嫌な顔をします。
仮に、孫権が蜀はあげようと気前よく言ったとしても、だから荊州は直ぐ返せ
と言いだすに決まっているからです。
そこで群臣に意見を聞くと、殷観(いんかん)という人物が進み出て言いました。
「仮に呉の先鋒として、わが軍が蜀を攻めるとすると、大敗した場合には
その背後を呉に襲われて荊州をも失う事になりかねません。
ですから、呉の申し出は受けますが、わが軍は諸郡の安定に時間が掛るので
戦争には参加できないと申されるとよいでしょう。
呉は、我が国を越えて単独で蜀を攻めるのに不安を感じ提案を引っこめるでしょう
これこそ、呉からも益州からも利を得る方法です」
劉備はなるほどと思い、孫権の使者に、そのように言うと殷観の言う通り
孫権は援軍の話を引っこめたので劉備は喜び、殷観を別駕(べつが)従事に昇進させます。
劉備と呉の使者のやりとりが献帝春秋に・・
三国志、蜀書、先主伝の記述は、これだけですが、裴松之(はいしょうし)の補った
資料である献帝春秋(けんていしゅんじゅう)には細かいやり取りが残っています。
呉の使者「五斗米道の教祖、張魯(ちょうろ)は漢中を独立支配してはいますが、
このご時世ですから、いつ曹操の手先として蜀を獲りにいくか分りません。
一方で益州牧の劉璋は、まったく意気地がない無能な凡君です。
もし、蜀が落ちれば、荊州はいよいよ風前の灯になりましょう。
そこで、ここは呉と荊州の軍勢が相前後して、蜀に攻め入って劉璋を除き、
返す刀で張魯を討ち取り、呉楚を統一すれば、もはや10人の曹操が向かってきても
恐れる程の事はありませんぞ」
それをうんうんと聞いた劉備は反論に出ます・・
劉備反論!劉璋は守ればツオイし、曹操は負けても強大なんだお!
劉備「張魯が曹操の手先になるとの仰せですが、あやつはいい加減な男です。
必ずしも曹操の言いなりになるとは思えませんな・・
また、劉璋は確かに凡君ですが、益州は肥沃で10万の精兵を持っていて、
民は懐いておりますので、守られれば大変な強敵となります。
そこに遥か、揚州から万里を越えて物資を運び攻略するとなると、
呉起(ごき)のような知恵者でも策を出せず、孫武(そんぶ)のような用兵家でも
攻略できません。
有識者の中には、赤壁で負けた曹操は、二度と領土拡張に出ないと
楽観論を出すような人もいるようですが、果たしてそうでしょうか?
曹操は依然として、中華の3分の2を領有しており士気も高いのです。
あやつは、疲れた馬を休ませて水を飲ませているに過ぎません。
いつまた変心して、呉を攻め落とすべく軍を南下させぬとも限らぬのです。
それに曹操は、逆臣とはいえ帝を擁しております、劉璋は漢室の臣、
無暗に攻めれば、それは帝に弓を引く逆臣として、曹操に討伐の大義名分を
与える事になりましょう、賢明な策とは言えません」
このように劉備は、張魯をいい加減と言い、劉璋をボンクラだけど、
地の利と人の和に守られているといい、曹操を腐っても鯛だと持ちあげ
何としても援軍を断ろうとしています。
孫権、劉備の制止を無視して孫瑜を派遣、、その時、劉備は
しかし、孫権は劉備の言い分に耳を貸さず、孫瑜(そんゆ)の水軍を夏口に派遣しました。
すると劉備は、こうなれば実力行使だとばかりに、関羽(かんう)を江陵に、
張飛を秭帰(しき)に、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)を南郡に駐屯させ
臨戦態勢を整えると孫瑜に言いました。
劉備「どうしても、呉が不義理を犯してまで蜀を攻めるというのなら、
私は髷を切って髪を振り乱し、山の中に隠遁して天下の人に自分の赤誠を伝え、
不忠の人のそしりを恐れるのみだ!
無益な戦争反対!海は死にますか?山は死にますかっ?」
急に平和主義者になり、言い分とは反対に軍を配置して、孫瑜の進軍を止めようと
する劉備を見た孫権は、(あ、こいつ、益州を独り占めしたいんだな)と気付き
孫瑜に退却する事を命令しました。
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三国志ライターkawausoの独り言
もっともらしい、劉備の言い分も、それから2年もしない間に蜀に攻め入る
事実の前には、よくもまあ、抜けぬけと、としか思えません。
まさに口八丁、手八丁の狼中年、劉備の強かさが現れていますね。
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