魏には孫呉キラーと言われる将軍達がおります。
一人目は合肥(ごうひ)の戦いでわずか数千の軍勢で孫権軍10万を打ち破り、
その名を天下に轟かせた張遼(ちょうりょう)。
二人目は数年にわたって合肥や寿春など孫呉の国境を守り続け、
孫呉の軍勢が攻めてくれば必ず打ち破った孫呉キラー満寵(まんちょう)。
さて今回紹介する三人目の孫呉キラーは曹休(そうきゅう)です。
あれこの人そんなに孫呉軍と戦っていた人なのと思われる方も多いと思いますが、
実は上記で紹介したキラー達と同じくらい孫呉戦で活躍している人物だったのです。
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夏侯惇の後任者
曹操軍の重鎮として君臨していた夏侯惇(かこうとん)。
彼は曹丕(そうひ)が皇帝になると大将軍に就任することになります。
しかし彼は高齢であったために大将軍に就任後すぐに亡くなってしまいます。
彼は孫呉との国境を守っていたのですが、彼の後任者として白羽の矢が立ったのが曹休です。
彼は曹丕から鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の位を拝命すると任地へ赴くことになります。
孫呉キラー曹休の活躍その1:孫呉軍に圧勝
曹休は任地に到着するとすぐに孫呉の軍勢が攻撃を仕掛けてきます。
彼は歴陽(れきよう)という土地に孫呉軍が駐屯していることを知ると自ら軍勢を率いて孫呉軍へ
攻撃を行いみごとに孫呉の軍勢を撃破。
曹休は孫呉軍を撃破すると長江沿いにある孫呉の拠点をいくつも破壊して武功をあげます。
この事を知った曹丕は大いに喜び征東将軍(せいとうしょうぐん)へと格上げし、
揚州刺史(ようしゅうしし)の位を与え侯の位を与える大盤振る舞いを見せます。
孫呉キラー曹休の活躍その2:張遼らを率いて孫呉軍を撃破
こうして孫呉軍との初戦を圧倒的な勝利を収めた曹休。
彼は曹丕が孫呉討伐を行うと孫呉討伐軍に参加することになり、
諸将を率いる黄金のマサカリと征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の位を下賜されます。
曹休は孫呉キラーの先輩である張遼らの諸将を率いて洞浦(どうほ)に駐屯している
孫呉軍の大将である呂範(りょはん)を完膚なきまで叩き大勝利を収めることに成功。
こうして孫呉キラーの名を着実に上げていく曹休は曹丕から
「孫呉キラーとして名乗りをあげたらどうなのだ」と言われたそうです
(すみませんこれはレンの勝手な想像です。)。
曹丕は孫呉の軍勢を打ち破った曹休に揚州の牧の地位を与えることにします。
孫呉キラー曹休の活躍その3:孫呉軍を降伏させる
孫呉キラーとして孫権から恐れられるほどの功績を挙げ、
国内からも武功の数々を褒めた讃えられていた曹休。
彼は孫呉の軍勢が懲りずに魏・呉の国境沿いにある皖(かん)に駐屯していることを知ると
自ら軍勢を率いて孫呉軍へ攻撃を行います。
この攻撃によって孫呉の武将である審徳(しんとく)が討ち取られ、
孫呉の武将達は曹休の軍勢に審徳が討ち取られたことを知ると降伏してきます。
魏の二代目皇帝である曹叡(そうえい)は曹休が孫呉軍を撃破し、
孫呉の武将を降伏させたことに大喜び。
曹叡は彼に領土を増加させて大司馬の位を与え報います。
三国志ライター黒田レンの独り言
孫呉キラーとして魏・呉両国にその名を馳せていた曹休ですが、
彼の孫呉キラーとしての戦いぶりはここで止まってしまいます。
孫権は曹休軍をこてんぱんにするため周魴へ魏に偽りの降伏を命じて、
曹休軍をおびき寄せる作戦を決行。
その結果、孫権の作戦は大成功を収めます。
周魴の偽りの降伏を信じてしまった曹休は、
呉軍の猛攻撃を受けて率いていた軍勢はボロボロにされてしまい、
討ち取られる寸前まで追い詰められてしまいます。
しかし魏軍の援軍がなんとか曹休を救出することに成功するのですが、
彼は呉軍に敗北したことが相当に悔しかったらしく病を発して亡くなってしまいます。
しかしレンとしては孫呉キラーとして孫呉軍に幾度も勝利を収めていた曹休を
張遼・満寵に匹敵する孫呉キラーとして認定したいと思います。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など
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