共に後漢を継いだ正統王朝だと名乗る曹魏と蜀漢、それだけにお互いを罵倒して
味方を増やそうとするような文書を頻繁に出しています。
特に、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)による五度の北伐に対応した
曹叡(そうえい)は、孔明を憎む事甚だしく、これをDISる文書も出していました。
その中には、かなり誇張されているとは言え、孔明のリアルな一面が描かれています。
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この記事の目次
その文書は、孔明の第一次北伐を退ける途中に出された
曹叡が孔明をDISった文書は、西暦228年、孔明による第一次北伐に対して
親征を行い、長安に駐屯していた2月17日に出されています。
この北伐では、序盤で涼州の三郡が魏から離反するなど、曹叡の威光が北辺には
及んでいない事を示すような痛恨事もありました。
さらに洛陽を離れて長安に駐屯した曹叡が病死したという曹叡死亡説まで
洛陽で流れ、曹丕の弟の曹植(そうしょく)が次の皇帝に即位するというデマが渦巻き
祖母の卞(べん)皇太后以下、群臣がオロオロする有様でした。
勝つには勝ちましたが、皇帝としてのプライドを傷つけられた曹叡は、
マジで孔明が大嫌いだったと思います。
曹叡が書いた孔明DIS文書は、どういうものか?
では、曹叡はどういう文書を出していたのでしょうか?
三国志魏志、明帝紀が引く魏略から説明しましょう。
「劉備(りゅうび)は、先帝の恩義を受けながら、これを裏切って巴蜀に逃げ込み、
孔明は父母の国を捨てて(孔明は元々、徐州の人)逆賊と手を結んだ。
その悪行の報いで劉備は死んだのだ。
残った孔明は表向きでは、劉備の遺児を盛り立てて忠臣顔をしているが
事実は、これを蔑にして独裁体制を敷いているのである。
事実、劉禅(りゅうぜん)の兄弟達には、戦略的にはどうでもいい城を守らせている。
また、益州の民を侮り、酷薄に扱うので、利狼(りろう)、定渠(ていきょ)、
高定(こうてい)、青羌(せいきょう)は皆離反して、孔明の仇敵となっているのだ」
曹叡のDISは人格攻撃へ発展、孔明はマゾでドけちだ!
いかがでしょうか?魏のプロパガンダとはいえ、孔明の独裁や劉備の恩知らず具合など
かなり真実を突いている部分もあるような気もします。
曹叡のDISは止まらず、さらに孔明の人格攻撃に発展していきます。
「おまけに孔明は、ドけちである!昔、薪を背負っている時に摩擦で
皮袋(毛皮のジャケット)が擦り切れるのを惜しみ、それを裏返して着ていたし、
それも裏地がすり減り、表の毛が全て抜けおちるまで捨てようとはしなかった。
靴のサイズが合わないと見るや、自分の足を刀で削って無理やり履こうとし
肌を切り刻み、骨に傷をつけながら、逆に自分を逆境に負けない人間だと称揚し
大変に有能であると思いこんでいるのだ」
曹叡のDISに見える、孔明の性格・・
曹叡の文書は、全くの嘘ではなく、当時、孔明について知られていた情報を
文書に迫真性を与える為に盛り込んでいると思われます。
だいたい、全くの絵空事で孔明を語っても、孔明をよく知る人には?と思われて、
逆効果だからです。
魏には、徐庶(じょしょ)や、孟達(もうたつ)、黄権(こうけん)、
縻芳(びほう)のように、孔明を知っている人々もいます。
そういう人々から孔明の情報を聞きとりDISの材料にしているのです。
このような視点から見ると、薪を背負って云々というのは、
孔明が隆中で晴耕雨読の生活をしていた時代の逸話で倹約を意味していて
靴が合わないから足を削るというのは誇張が過ぎるとしても肌を切り刻み、
骨に傷をつけるとは、孔明が丞相になってから、相当なオーバーワークにもめげずに、
「俺凄い!」と自己陶酔しながら頑張っている様子を皮肉っているのでしょう。
これ、個人的には、大して外れていないように思うのです。
三国志ライターkawausoの独り言
曹叡のDIS文書は、これに留まらず、
「孔明なんて小者は無視していたのに、身の程しらずにも周囲を扇動して
叛いてきたから、魏の精兵をぶつけたら、ブルって逃げおった。
孔明に脅されて、嫌々従っていた者は許してやるから、遠慮なく降伏せよ」
というような内容で締められています。
孔明が曹叡と争ったからこそ、残された孔明のプライベート情報、
歴史とは面白いものです。
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