諸葛亮の宿敵であった司馬仲達(しばちゅうたつ)。彼は曹操に仕える前、名士グループの人達から高い評価を受けておりました。
しかし曹操は彼が配下になると彼を信用していなかったのではないかと思える節があります。
名門一家司馬家
司馬懿の家柄は名門で、父司馬防は京兆尹(けいちょういん=首都における知事相当の役職)についており、司馬懿の爺様は頴川(えいせん=荀彧や郭嘉の出身地)の太守になっておりました。そのため司馬懿は幼少期からしっかりとした教育を受けておりました。また父司馬防の息子たちは皆優れ、名前に皆「達」の字がついていたことから司馬の八達と言われる程の秀才ぞろいであったそうです。
名士グループから評価を受ける
司馬懿は河内(かだい)の出身でこの地方の名士達から大いに期待されており、幼い頃には河内出身の名士である楊俊(ようしゅん)から「君は非常の時に大きな才能を見せるであろう」と評価を受けます。また冀州(きしゅう)出身の名士である崔琰(さいえん)も司馬懿を高く評価をしております。これらの名士達からの評価を受けたことによって、司馬懿の名声は一気に高くなっていくことになります。
荀彧から推挙を受けて曹操に仕える
司馬懿はこうして各地の名士達から高い評価を受けておりました。そして彼は曹魏の中でトップ名士である荀彧(じゅんいく)からの推薦を受けて、曹操に仕えることになります。
しかし司馬懿は曹操からの出仕を幾度も断っていると「晋書(しんしょ)」に記載されておりますが、果たしてこれほどの名士グループから高い評価を受け、曹操軍の配下の中でトップ名士である荀彧からの推挙を断ることができるのでしょうか。
一度は荀彧の誘いを断ったかもしれませんが、二度も三度も断ることは無かったのではないのでしょうか。その理由として名士の先輩から断る意味があまりないように思えるからです。曹操を嫌っているのであればさっさと国元を出て他国で仕えてしまえば良かっただけです。しかし曹操に仕えているので、そんなに曹操が嫌いで出仕を断ったのではなく、儀礼的な感覚で一度断っただけではないのかなとレンは考えます。
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曹操に仕えて順調に出世するも・・・・
曹操に仕えた司馬仲達は曹操が丞相に就任するとすぐに出世していきますが、要職と言われるような地位に登ることはありませんでした。また漢中を拠点にしていた五斗米道の教主である張魯(ちょうろ)を討伐した際、司馬懿は曹操へ「王よ。益州を占領したばかりの劉備軍は、まだ政権の地盤をしっかりと固めておりません。
今、大軍を率いて管仲から南下して益州へ攻撃を仕掛ければ容易く討伐できると考えます。」と進言しております。しかし曹操は「漢中を今手に入れることができたのだ。これ以上攻め込んで行くのはよろしくない」と言って司馬懿の進言を退けてしまいます。
曹操はどうして司馬懿の進言を取り上げなかったのでしょうか。司馬懿以外にも色々な人物が(劉曄(りゅうよう)とかが進言しているので一概には言えませんが、司馬懿を警戒していたのではないのかなとレンは考えます。曹操は司馬懿が名士グループと密接な関係を持っている人物であることから、名士達を糾合して自分の勢力を拡大するのではないかと恐れていたため、彼を要職に就けることもせず彼の進言を採用しなかったのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
曹操は司馬懿の首が180°回る姿を見て「虎狼の相(ころうのそう)」と言い、「やつは必ず何事かを胸に秘めている。用いる際は気を付けよ」と曹丕に伝えたそうです。曹操は司馬懿の才能は素晴らしく有能で用いていたのですが、司馬懿が従順に今後も従っていくことができるのか不安に思っていたため、彼を警戒していたのではないのかなとレンは考えます。
参考 SB新書 三国志「その後」の真実 渡邉義浩・仙石知子著など
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