三国志の主役級の人物である曹操(そうそう)、優れた政治家、軍人、
詩人であった彼ですが、実は曹操、歴史の先生として宮廷で採用された事がありました。
そして、その辺りの事情を注意深く観察してみると、どうして曹操が後漢を見限り、
群雄として立ちあがったか、その理由も見えてくるのです。
この記事の目次
従妹の夫が誅殺された後、罷免された曹操に歴史の先生の仕事が・・
曹操が、北部都尉として赴任し、洛陽北門を警備する任務についていた頃、
仲常侍で霊帝のお気に入り、小黄門蹇碩(けんせき)の叔父が
夜中に北門を通過して禁を破りました。
「俺は蹇碩の叔父だぞ」と権力をカサにきた態度も曹操には通じず、
やはり五色棒で打ち据えて撲殺してしまいます。
これで洛陽は戦慄し、夜中に北門を通過する人間はいなくなりました。
ちなみに夜中に門を通過するものを棒で打つのは、決して非道ではなく、
野盗や犯罪者を城内に入れない為の法律であり必要なものでしたが
霊帝の時代には、法律が形骸化し、権力者は守らなかったのです。
この事で蹇碩は、曹操を恨みますが、なにしろ曹操は法を執行しただけなので
表立って難癖をつける事も出来ず、業績を褒め称えて、栄転という形で
頓丘(とんきゅう)令に追いやるのが精々でした。
曹操が、頓丘令をやっていた頃、従妹の夫である㶏彊(いんきょう)侯
宋奇(そうき)が事件を起こし誅殺されます。
曹操も従妹との関係で連座が適用されクビになりました。
しばらく故郷で隠棲していた曹操ですが、思いがけず宮廷よりお呼びが掛ります。
古学、つまり歴史に詳しい事で議郎として採用されたのです。
曹操は、どうして歴史に詳しかったの?証拠は・・
曹操の業績を書き記した武帝紀には、そこかしこに、
曹操の歴史の造詣への深さが窺われる記述が出現します。
例えば、西暦191年、黒山賊の于毒(うどく)、白繞(はくじょう)
眭固(ずいこ)らが、十余万の軍勢で魏郡・東郡を包囲、掠奪を尽くした事がありました。
この時に、曹操は、袁紹(えんしょう)の要請で、東郡大守王肱(おうこう)の
援軍に向かい、濮陽(ぼくよう)に黒山賊の白繞(はくじょう)を撃って撃破しました。
袁紹(えんしょう)は役立たずの王肱を大守から降ろして上表し、
太祖を東郡太守とし、東武陽に郡都を置いて統治させます。
翌年、曹操は、頓丘に軍を駐屯させますが、その隙を突いて、
于毒は、東武陽を急襲します。
それを知った曹操の部下は、急いで東武陽に引きかえして、
于毒を討ちましょうと進言しますが、
曹操はここで歴史ウンチクを炸裂させます。
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わざわざ二つの歴史ウンチクを炸裂させる曹操
「君達は、斉の孫臏(そんびん)の故事、囲魏救趙を知っているだろう?
彼は、同盟国の趙の都、邯鄲が包囲されると、
邯鄲に向かうのではなく魏の都の大梁(たいりょう)を突いた。
当時、魏は全軍を趙に振り向けていたから、都は老人と子供ばかりだった
慌てた魏軍は、自ら邯鄲の包囲を解き、急いで戻ってきて疲れの為に
迎え撃った孫臏の斉軍に難なく撃破されたのだ。
また、光武帝の臣である耿弇(こうえん)は、長安と臨淄の城の間にいたが、
小さな長安城と大きな臨淄城では、実は臨淄城が攻めやすい事を考え、
わざと長安城を攻めると宣言しておいて、逆に臨淄城を攻撃、
不意を突いて撃破し、結局、長安城の敵も恐れて逃げてしまったのだ
我は、歴史に学び、ここは黒山賊の本拠地を攻撃する事にする。
もし、于毒が戻ってくれば、疲れ果てた所を撃破すればいいし、
戻らないなら、黒山賊の本拠地を陥落させる事が出来よう・・」
別に二つも事例を出す必要はないと思うのですが、、
それは、歴史オタクならではの、ウンチク話したい病でしょう。
俺は知っているぞとPRしたいのです。
こうして曹操は、黒山賊の本拠地に向かうと、于毒は慌てて、
東武陽の包囲を解いて戻ってきます、そこを曹操は待ち伏せて、
眭固と於夫羅(おふら)を撃破して大勝しているのです。
ウンチク通りに作戦が成功して、さぞかし曹操は鼻高々だったでしょうね。
歴史を知る曹操は衰亡する後漢を救いたかった
議郎は、宮廷に仕えるので、霊帝に上奏するチャンスもありました。
歴史に詳しい曹操は後漢が亡国に向かっている事を感じて忸怩たる思いを
抱えていて、どうにか、腐敗を正そうと燃えていたのです。
曹操は議郎になると早速、大将軍の竇武(とうぶ)や太傅陳蕃(ちんばん)達が
宦官を皆殺しにしようとして、逆に陥れられて殺された事を引き合いに出しました。
そして、彼等のやろうとしたことは正しいので名誉を回復すべきだし、
現在も、邪悪な人間が宮廷に蔓延っているので、これを排除すべしと上奏します。
宦官の害は秦を滅ぼしていますし、その後も度々、王朝を腐敗させていますから
曹操の上奏は歴史に照らして真っ当なものでした。
しかし、事実上、宦官のお陰で皇帝になったような霊帝は、恐ろしさから
竇武や陳蕃の名誉を回復する事も、邪悪な人間を処断する事も出来ませんでした。
彼は本心かどうか別として、宦官の趙忠(ちょうちゅう)を母、
張譲(ちょうじょう)を父と呼んでいるような臆病な人だったのです。
曹操は、激しい失望を味わう事になります・・
曹操、今度は三公を糾弾するが・・
しばらくすると、今度は地方の腐敗が酷いとして、三府(三公)に地方官で
無能な人間や悪名を受けている役人を罷免するように詔勅が下ります。
曹操は様子を見ていましたが、三公の判断は腐敗していて、賄賂を受けた
人間や仲常侍の関係者は見逃し、賄賂が無い人間や正義の人は陥れられて
次々と摘発されてクビになる有様でした。
曹操は激怒して、三公の不正を憎み、たまたま天変地異があって、
その原因を知りたいと朝廷から天下に公募があった時に上書します。
「畏れながら、三公は偏っております。
彼等は、悪人でも無能な人間でも、貴族に関係する人間は見逃し
賄賂を贈るものは見逃し、無実の人間を悪人としてクビにしております。
このような不正義を放置して良いのでしょうか!」
それは霊帝を諌めるような内容であり、流石に自らを反省した霊帝は、
三公を叱り、罷免された人々を議郎として再登用しました。
しかし、三公が行政上の責任を負う事はなく、その後も腐敗は延々と続きます。
それを見て、もはや上奏しても無意味と悟った曹操は献言を止めたのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
その後、黄巾の乱が起きたので曹操は騎都尉として大きな活躍をします。
乱後は、済南の相になり、腐敗を一掃して人々を苦しめた邪教の廟を破壊しますが
結局、大木の根が腐っているので、どうにもなりませんでした。
途中、冀州刺史王芬(おうふん)、南陽の許攸(きょゆう)沛国の周旌(しょうけい)等は
豪族と手を組んで、曹操に霊帝を廃位するクーデターに加わるように密書を送ります。
その中で王芬等は、主君の廃位は、殷の伊尹(いいん)や前漢の霍光(かくこう)も
やっているから容易だと楽観論を述べていますが、曹操は、その粗雑な思考に呆れて、
当時と現在の状況の違いを述べて、必ず失敗するから止めなさいと言っています。
この辺りにも、曹操が歴史を丸暗記しているのではなく、詳細までを知り、
現状と比較検討可能な程に内容を読みこんでいる事がわかります。
やがて曹操は、一族にまで迷惑が掛る事を恐れて、東郡大守を辞退し、
間も無く病気と称して、故郷に引っこんでしまいます。
次に中央に出てくるのは、霊帝により西園八校尉に任命されたからですが、
まもなく霊帝も死去し後継者争いから、後漢は決定的な倒壊を迎えます。
歴史マニアだった曹操は、もう行政官僚として国を変えるのは不可能と悟り
筆を武器に持ちかえて自ら歴史を造る方に参加したのです。
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