張飛の男気人生に痺れる!これぞ三国一!一騎当万の豪傑


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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志は、戦乱の時代の物語なので、単純に強い武将は大勢存在します。

しかし、その生き様に惚れる、強い男気を感じさせる武将となると、

その数は限られると言えるでしょう。

男気とは何か?強い弱いに関係なく、損得抜きで自分が信じた者の為に

平然と命を賭ける熱い魂の持主に他なりません。

そして、蜀の陣営においては、まさに張飛(ちょうひ)こそが男気の化身なのです。


燕人張飛、劉備玄徳の為に命を張る

 

張飛益徳(ちょうひ・えきとく)は、幽州の涿郡の出身です。

主君である劉備(りゅうび)が涿郡涿県なので同じ郡の人間という事になります。

三国志演義では桃園の誓いを交わしますが、史実ではそんな記述はありません。

しかし、蜀書関羽(かんう)伝によれば、関羽、張飛は、寝る時も劉備と同じ

ベッドだったと言い食事も共にするなど、その親密な関係が窺えます。

 

それでも、関羽、張飛は人前では、常に劉備の左右に立って休む事なくガードし、

公私の区別をきっちりし、イザという時には、身を挺して劉備を守りました。

そのような3人の絆から、三国志演義の桃園の誓いは産まれたのでしょう。


劉備最大のピンチに張飛、男を見せる!

そんな張飛、人生最大の見せ場は長坂(ちょうはん)の戦いです。

西暦208年、荊州の支配者、劉表(りゅうひょう)が病死、

家督は次男の劉琮(りゅうそう)に継がれました。

それに合せて、曹操(そうそう)は大軍を持って荊州に攻め込んできます。

荊州で実質的な権限を握っていた重臣の蔡瑁(さいぼう)

若い劉琮(りょうそう)を説得して曹操への降伏を提案。

劉琮は、渋々これを受け入れますが、これらの決定は荊州に身を寄せていた

劉備には一切、伏せられていました。

 

劉備が異変を察知した時には、曹操の大軍は、すでに荊州に迫っていたのです。

曹操は、かつて自分を裏切り暗殺計画に加担し、官渡の戦いでは袁紹(えんしょう)

について散々に背後を撹乱した劉備を許さず必ず仕留めるつもりでいました。

その為に足の速い騎兵を先行させて、劉備がいる樊城に向かっていたのです。

 

避難民に取り囲まれて、思うように逃げられない劉備は、軍勢を捨てて、

十数人のお供だけで全力で落ち延びようとしますが、

このままでは、追いつかれるのは間違いありません。

そこで劉備は、張飛に殿軍(しんがり)を頼む事にしました。


橋を落し、曹操軍の精鋭を前に立ち向かう張飛

 

殿軍とは軍の最後尾について、本隊を無事に逃がす役割を持つ部隊です。

敵に近いので攻撃をまともに受けますし本隊が逃げ切るまで退却も出来ません。

もっとも戦死する確率が高い持ち場なのです。

 

劉備「益徳、やってくれるか?」

張飛「俺が兄者の頼みを断ったことがあるか?」

 

張飛は僅か二十騎程で、その場に残り猛然と曹操軍に向かって突き進みます。

そして河にかかる長坂橋という吊り橋を斬りおとしました。

 

そこに黒ずくめの曹操の精鋭部隊、虎彪騎が追いつきます。

数は五千騎、まともに立ち向かえば二十騎では、到底勝ち目はありません。

殺到する虎彪騎を張飛は矛を横たえ目をいからせて怒鳴りつけます。

 

「我が名は張飛益徳なり 来たれ!どっちが死ぬか決めようじゃねえか!」

 

原文:身是張益德也 可來共決死

 

三国志演義では、張飛の怒鳴り声で、河の水が渦巻いたとされています。

それほどの凄まじい形相だったのです。

百戦錬磨の虎彪騎も、死を覚悟した張飛の形相に恐怖を感じ誰も打ちかかれず

その間に劉備は劉琦(りゅうき)が守る江夏城に逃れる事が出来ました。

 

張飛の命がけの行動が無ければ、劉備の首は、この長坂で飛んでいたかも知れず

敗戦の途中とは言え、大殊勲と言える程の大手柄でした。


  

 

敵も賞賛を惜しまない張飛の武勇

 

関羽のみならず、張飛の武勇も、この当時から鳴り響いていました。

魏の謀臣の程昱(ていいく)は、張飛の武勇を関羽に次ぐとして万人の敵と言いました。

まさに一騎にして一万人を相手に出来るという意味で、

一騎当万、敵側としては、最大の褒め言葉です。

 

張飛はその後も、益州攻略戦に参加、江州において蜀の名将、厳顔(げんがん)

捕えるなど、腕力バカではない変化球も覚えるようになります。

 

曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を降して、劉備と漢中を争うようになると

張飛は、魏の名将、張郃(ちょうこう)と戦い、地形を活かして張郃を細い山道に

誘い込み、魏軍が身動き取れないようにしてから、間道から軍を繰り出して、

これを寸断して撃破し、張郃は僅か十騎余りで落ち延びる大敗北を喫しました。

 

漢中王、劉備が張飛に送った賛辞

 

西暦219年に劉備は、魏王になっていた曹操に対抗して漢中王に即位します。

張飛は、これまでの功積で右将軍、仮節(かせつ)となり、さらに221年には、

車騎(しゃき)将軍になり、司隷校尉(しれいこうい)、西郷侯に封じられました。

 

仮節とは軍令違反者を自分の権限で処刑できる特権で、司法権の一部を

君主から譲られた状態、車騎将軍は後漢においては大将軍に次ぐ地位ですが、

大将軍自体が臨時の性格を持つので、通常は文官の三公に匹敵する

最高の地位と呼べるものです。

 

関羽亡き後、張飛は蜀漢政権において武将の最高の地位に立ちました。

それこそ、劉備の絶大な信頼の裏返しではないでしょうか?

 

ここで、劉備は張飛に対して、以下のような言葉を送っています。

 

「君の忠義は、いにしえの召虎に匹敵し名声は遠くまで轟いている。

それゆえ特に命令を顕(あきら)かにして壁を高め爵位を進め、

首都の治安を守る事を命じよう。

大いに天意に沿い、従うものは温情を持って扱い、叛く者を討ち取り、

私の心に沿うように忠誠を尽くしてくれよ」

 

召虎(しょうこ:召穆公)とは、周の宣王を補佐した賢臣で中原に侵入する

淮夷(わいい:異民族の一つ)を討伐した人です。

劉備は自身を周の再興に尽力した宣王に例え、張飛を補佐役の召虎になぞらえて

漢の天下を盗んだ魏を討伐して欲しいと願ったのでしょう。

 

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