涼州(りょうしゅう)。三国志が成立する前の涼州は小豪族がいろんな所で独立しており、非常に治めにくい土地でした。しかしある人物はこの治めにくい涼州の統治方法を曹操へ示した人物がおりました。今回は画期的な涼州の統治方法を示した人物・衛覬(えいき)をご紹介したいと思います。
はじめてのお使い
衛覬は曹操に仕えることになるとある命令を受けます。それは益州(えきしゅう)の牧・劉璋(りゅうしょう)を使って、荊州(けいしゅう)の劉表を牽制するようにとのことでした。
河北の覇者・袁紹(えんしょう)は、劉表と手を組んで曹操を南から牽制しておりました。曹操は劉表が南から自らの勢力を牽制することに集中できないようするため、方法を思いつきます。それは劉璋を使って劉表へプレッシャーをかければ、劉表から受ける牽制力を弱めることができると曹操は判断。そのため彼は衛覬に「劉璋の元へ行って劉表を牽制するようにお願いしてきてくれ」と命令します。
衛覬は命令を受けるとすぐに劉璋の元に向かって行きます。彼は関中を通過して益州へ向かうことにするのですが、長安(ちょうあん)から益州へ向かう道が寸断されているため、益州へ向かうことができませんでした。そのため長安にとどまることになってしまうのですが、この地で彼はあることに気づきます。
関中に帰ってくる人が多い
衛覬は益州へ向かうことができずに長安に留まることになるのですが、この地に帰郷してくる民衆が多いことに気づきます。長安は董卓が移り住んだ後、李傕(りかく)らが占拠。この二人は暴政を敷いた為、長安や長安近辺に住んでいた民衆達は彼らを嫌っていろんな所に逃亡。
その結果、長安の街はすっかりと荒れ果ててしまいましたが、董卓・李傕らがいなくなると当時住んでいた人々が、少しずつ住んでいたところに帰ってきます。しかし関中各地にいた小豪族は彼らが帰ってくると自らの領土に彼らを招き入れて、そのまま住まわせてしまっていたため、長安の街は荒れ果てた状態から復興できない状態でした。このことに目をつけた衛覬 は曹操の参謀役として活躍していた荀彧(じゅんいく)へ手紙を送ることにします。
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荀彧に送った手紙とは
衛覬は荀彧へ「長安や長安近辺の関中の土地は肥沃な土地で、民衆達は董卓・李傕らが居なくなった事がきっかけで次々とこの地に帰郷しております。しかし関中へ帰ってくると仕事無く途方にくれている所を関中の豪族達に吸収されています。彼らは帰郷してきた民衆達を自己の勢力へ組み入れて兵力として活用しているそうです。このままでは帰郷してきた民衆達は関中の豪族達へ組み入れられ続け、彼らの勢力は侮りがたいことになるでしょう。
そこで私は関中へ帰郷してきた民衆達へ牛を配給して、農業を奨励させることに注力すれば、民衆達が豪族達の元へ行くことを無くすことができるのではないのでしょうか。また関中に主がない状態ですと民衆達も不安に駆られる可能性がありますので、司隷校尉(しれいこうい)に関中を統治させて民衆達の主として君臨させれば、彼らも安心して農業やその他の仕事に従事することができるのではないのでしょうか。」と提案します。
荀彧はすぐに曹操へ衛覬の提案を伝えるとすぐに彼の提案を採用し、関中の統治方法を改めさせることにします。衛覬の提案を採用した結果、関中へ帰郷してきた民衆達は他国へ流れることなく、関中の地に定住し民衆達は農業に励み、関中は日を追って豊かになって行ったそうです。
三国志ライター黒田レンの独り言
衛覬の提案によって荒れ果てていた長安の街や関中の街は復興することになります。彼は提案がきっかけとなって昇進していくことになります。さらに彼は曹操から「蕭何(しょうか)に匹敵する功績を残している」と評価された鍾繇(しょうよう)の関中に割拠している豪族達の統治方法に対して、違う視点から関中の豪族達を統治したほうがいいのではと曹操へ提案しております。この話も後ほどそのうちご紹介させていただきたいと思います。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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