ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・わけを聞かせて」のコーナーです。
仁君・劉備玄徳。漢王朝の継続・復興のために生涯を捧げた人物です。諸葛亮孔明、関羽、張飛、趙雲など有能な家臣に恵まれました。そんな中の一人に「劉封」がいます。その剛勇は諸葛亮孔明も認めていたほどです。荊州長沙郡の人で、姓は劉ですが、劉備の親族ではありません。「三国志正史」によると世継ぎのいなかった劉備が養子に迎えたと記していますし、「三国志演義」では劉禅という世継ぎが誕生したにもかかわらず、劉備は劉封の器量に魅せられて養子に迎えたと記しています。タイミングが異なるものの、劉封が劉備の養子であったことに間違いはないようです。
コンビで活躍
劉封といえばコンビで活躍するイメージが強いですね。三国志演義であれば「関平」とのコンビが印象に残っています。三国志正史では「孟達」でしょうか。益州平定においてもかなりの武功をあげて活躍したようです。やはり劉備を認めさせた武勇は一級品だったということでしょう。219年には上庸の攻撃を劉備から命じられました。
関羽への援軍を出さなかったのか、出せなかったのか
劉備が漢中の夏侯淵を倒すために、東の上庸を押さえて夏侯淵の軍を引きつけておく戦略のために劉封は出陣します。しかし江陵から上庸への道筋には襄陽があり、魏の曹仁が五万の兵で守っています。攻略のためには険しい山道を踏破するしかありません。孟達は山岳戦に慣れており、十日で山道を踏破し、上庸の近郊の房陵を攻略します。上庸の申耽、申儀の兄弟は恐れて戦わずに攻略します。ここで劉備はこの兄弟を太守として引き続き起用することを決めたのです。この決断が劉封の動きを鈍らせることになります。ちなみに劉封はこの功績で副軍将軍に昇進しています。ここで北上して樊城を攻めていた関羽が、同盟国の孫権に裏切られ後背を突かれる危機に陥ります。劉封にも援軍を求める使者が来ました。劉封は孟達に相談します。
孟達は自分たちが出兵することで、申兄弟が反逆し東の漢中を攻めることを懸念していました。漢中王となった劉備が漢中を失うことは許されません。猛将の関羽が呂蒙に背後を突かれたからといって負けるとも考えていませんでした。結果、援軍を出さなかったのです。
これには諸説あり、関羽の進言によって劉備の後継者から外された劉封の恨みのために援軍を出さなかったともいわれています。
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自決か処刑か
関羽が敗北したことで申兄弟は再び魏に寝返ります。孤立した劉封と孟達は真逆の行動に出ました。孟達は魏に寝返り、劉封は山岳地帯を踏破し成都に帰還します。劉封は関羽に援軍を送らなかったことと、上庸を失ったことで罪に問われます。三国志正史では、今後の後継者争いの芽を摘むために諸葛亮孔明が劉封を除くように進言し、劉封は自決しています。
三国志演義では、諸葛亮孔明が止めに入ったものの、一歩遅く、劉備の命令によって劉封は処刑されていました。劉備の後継者は実子である劉禅と決まっていたようで、どちらかというと、養子である劉封が邪魔になったので除いたという見方が強いですね。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
この話、どこかで聞いたことがあります。日本の豊臣秀吉の後継者を巡る争いです。甥の豊臣秀次を2代目関白に据えたものの、実子である豊臣秀頼が誕生してからは邪魔になり、切腹、晒首とした事件です。
後継者争いは国を二分し、滅びの道を歩みかねない危険をはらんでいました。諸葛亮孔明は冷静に国家の先行きを見越して、危険要素を排除したのかもしれませんね。関羽の樊城侵攻が上手くいっていたら話はまた少し違ったのかもしれませんが・・・。劉封が後継者となっていた蜀の姿にも興味はありますね。皆さんはどうお考えですか。
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