張済(ちょうさい)と聞いて「ああ、あの人か」と分かる人は
かなりの三国志マニアではないかと思います。
張済に比べれば、彼の軍勢を引き継いだ族甥の張繍(ちょうしゅう)が有名だからです。
しかし、張済こそは、いつ果てるとも知れない内戦を繰り返した李傕と郭汜を
和睦させ献帝を東に移す事を承知させた功労者でした。
ところが、張済自身は土壇場で判断をミスり惨めな最期を迎えるのです。
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この記事の目次
涼州武威郡に産まれた張済
張済は涼州武威郡に生まれました、涼州出身者に多いパターンとして、
名前などは伝わってはいません。
しかし、何らかの政府の役職についていれば姓名は記録されると思うので、
張済も多くの董卓(とうたく)の配下と同様に、部曲(ぶきょく:私兵)として従い、
董卓が洛陽を制した事で名前が現われるようになった一人でしょう。
中牟で李傕、郭汜と共に朱儁を撃破する
洛陽を支配下に収めて献帝の後見人になった董卓は暴政を開始しますが、
一方では反董卓連合軍の勢いを恐れて、守りにくい洛陽を放棄して焼き払います。
ただ、そのままにしたわけではなく、陜(きょう)という所に娘婿の牛輔(ぎゅうほ)を置いて、
洛陽方面からやってくる反董卓軍の襲来に備えていました。
ここには、張済、李傕(りかく)、郭汜(かくし)も配置されていて、
西暦192年、正月に、朱儁(しゅしゅん)が攻め込んでくると、
これを中牟(ちゅうぼう)という土地で撃破しています。
それで済んだら良かったのですが、涼州DQN軍団の代表である、
張済、李傕、郭汜はモノのついでと兗州陳留郡、豫州潁川郡等で掠奪を働き、
さらに、誘拐、虐殺を欲しいままにします。
この時、豫州潁川郡の荀彧(じゅんいく)の一族は殆ど殺されました。
董卓、呂布に暗殺され、上司牛輔は逃げようとして部下に殺される
中牟で朱儁を撃破して、僅か4カ月後、彼等のボスである董卓が
ボディーガードだった呂布(りょふ)に殺害されます。
裏切りの理由はつまらないもので、呂布が董卓の侍女に手を出して深い仲になり、
董卓にばれて殺されるのを恐れた呂布が王允(おういん)に相談すると、
「殺される前に殺してしまいなさい」と唆されたのです。
三国志演義では、この話の侍女を貂蝉(ちょうせん)という美女にして
美しく脚色しますが、それはさておき、やりたい邦題の董卓は殺されました。
おまけに董卓の娘婿で直属の上司である牛輔は、王允の派遣した李粛(りしゅく)を
一度は撃破したものの、生来の臆病さで自軍の一部の動揺を全体の動揺と思い込み
勝手に戦線を放棄、財宝をしこたまガメて、どこかに逃げようとした所を
財宝に目が眩んだ攴胡赤児(ほくこ・せきじ)という男に殺害されました。
李傕・郭汜に従い長安を攻め落とし位人臣を極める
取り残された李傕、郭汜、張済はポカーンとするしかありません。
駆けつけてみると、すでに牛輔は屍になっており、誰に命令を受ければいいやら
全く見当がつかないからです。
董卓を殺した王允が、涼州勢を良く思っている筈もなく、窮した李傕、郭汜は
軍を解散して、目立たないように単身で故郷に帰って潜伏しようと考えます。
張済もそれに乗ろうとしましたが、途中で牛輔の参謀の賈詡(かく)が出現して、
賈詡「王允は涼州人を皆殺しにするつもりだから、軍を解散するのは危険だ。
離れ離れだと、かえって亭長にだって逮捕されてしまうだろう。
ここは、団結して董卓の弔い合戦で長安を攻め死中に活を求めるべきだ
失敗したら、その時に逃げればいいではないか?」と提案しました。
李傕、郭汜、張済は、それはもっともだと頷き、軍を解散させるのをやめて
董卓の弔い合戦の旗を立てて、長安に攻め上りました。
幸い、王允は董卓並みに人望がなく、流民や山属が李傕に味方して集結、
樊稠(はんちょう)、王方(おうほう)、李蒙(りもう)のような涼州勢も合流し
10万の大軍になった李傕・郭汜軍は呂布を撃破して長安を陥落させ、
王允と一族を皆殺しにました。
李傕は献帝を確保して自身は後見人になり、董卓と同じ事を開始します。
張済は献帝によって鎮東将軍に任命され弘農(こうのう)に駐屯しました。
後には、驃騎将軍、平陽侯に封じられます。
李傕・郭汜の内乱を見て野心が芽生える
張済が弘農に駐屯して間も無く、李傕と郭汜は、つまらない理由で仲違いし、
長安で内戦を開始します。
当初は、それを傍観していた張済でしたが、李傕軍から楊奉(ようほう)が兵を率いて、
クーデター未遂を起こし逃亡する事態になったので考えを変えます。
張済「チャンスだ、、李傕と郭汜は力の限り戦い、長安はあらかた灰になった
ここは軍を率いて長安に入り、武力で威嚇して二人を和睦させ、
帝を困窮からお救いすると言って、弘農へお連れすれば、次の天下は、
ワシのモノになったも同然ではないか」
しかし涼州DQNの一員の張済が、こんな計略を思いつくとは思えません。
これは恐らく、人のフンドシで相撲を取るのが得意な賈詡が、
密かに張済を呼んで入れ知恵したのだと思っています。
その辺の縁も有り、後に賈詡は張済の族甥の張繍の軍師になるのでは?
等とkawausoは考えてしまうのです。
さて、張済は、軍を率いて長安に入り李傕と郭汜を和睦させて、さらに、
献帝を豊かな弘農にお連れして戦塵からお救い致そうと持ちかけます。
李傕は郭汜を一緒に連れて行く事を条件に了承しました。
巧妙なモノで、この頃、賈詡は印綬を返還して献帝に暇乞いして
華陰の統治者、段煨(だんわい)の配下になっています。
穿った見方をすると、まるで張済の狙いが外れた時に
自分が責められるのを予期したような引き方です。
やはり賈詡は献帝を守る為に、張済を騙したような気がします。
裏切られた張済 土壇場で再び李傕・郭汜につく
こうして、西暦195年、献帝は郭汜、張済、董承(とうしょう)、
楊奉に護衛され東遷する事になります。
それは、宮女、文武百官を牛車で引き連れた華麗な行列であったと言われています。
ところが、出発してから間もなく、郭汜が自分の本拠地である郿(び)に、
強引に献帝を連れ込もうとして楊奉と対立し、ついに合戦になりました。
ここでは、楊奉、張済は郭汜を撃破し、敗れた郭汜は裏切られたと叫んで
長安に引き上げていきます。
しかし、行列が進んで弘農に近づくと、董承と楊奉は張済と対立します。
二人は献帝を洛陽までお連れすると言い、約束をまげてしまうのです。
張済「なにを血迷った?洛陽は董卓が焼き払ってから回復していない
そこへ帝をお連れしてどうするというのだ!」
董承、楊奉はそれでも洛陽は本来の都だと言って聞きません。
まあ当然です、張済の本拠地に献帝を置けば、天下は張済のモノになるからです。
この東遷に絡む人間模様は俗物だらけで、一人も真の忠義者はいません。
「この不忠者どもがっ!もはや貴様達とは同道せんっ」
張済はここで、董承、楊奉と手を切り、攻め上ってくる李傕・郭汜と合流します。
これが張済の運命を決めた最期の分かれ道になりました。
曹陽の戦いで楊奉を撃破するも献帝を取り逃がしてしまう
楊奉と董承は、なんとか黄河を越えて、安邑まで献帝を渡らせようとします。
そうすれば、船がない李傕と郭汜は諦めると考えたのです。
ですが、宮女を連れて牛車の一群の行動は遅く曹陽県で追いつかれました。
張済は、途中で李傕・郭汜と和睦して連合軍まで組んでいます。
ピンチになった楊奉は、元のお仲間である白波賊の韓暹(かんせい)
胡才(こさい)李楽(りがく)を仲間に引き込んで最期の決戦を挑みますが、
バカだけどケンカだけは強い李傕・郭汜&張済連合軍に撃破されます。
ですが、混乱とどさくさの中で、献帝と董承は船に乗り、追いすがる百官を
切り捨ててまで黄河を渡り安邑に渡っていました。
船を持たない張李傕・郭汜軍は、これ以上は追いかける事も出来ず
こうして、献帝を弘農に置いて権力を奮いたい張済の野望は潰えます。
食糧を漁りに来て流れ矢に当たり死亡
献帝を失った、李傕・郭汜の衰亡ぶりは激しいモノでしたが、
長安にさえいない張済はそれに輪を掛けて困窮する事になります。
驃騎将軍、平陽侯も名ばかりになり、食うに困って荊州北部で掠奪を行い
穣県という都市を攻略している時に流れ矢が命中し、呆気なく戦死します。
軍勢は従っていた族甥の張繍(ちょうしゅう)が引き継ぎましたが、
一時は天子をその手に掴みかけた男にしては惨めな最期でした。
[李傕郭汜祭]kawausoの独り言
この時に、張繍が保護した張済の家族の中に美貌の鄒(すう)氏がいたわけです。
やがて、段煨の下を離れた賈詡は、張繍の軍師となり、鄒氏を巡るトラブルから
曹操(そうそう)と丁々発止やり合う事になっていきます。
もしかして、賈詡は張済を欺いた罪滅ぼしの気持ちもあって、
張繍の軍師になったというような事もあるのでしょうか?
ですが、張済も短気を起こさず、洛陽までついて行っていれば、
違う人生もあったでしょうに、なまじ本拠地があった事が仇になりました。
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