こんにちは。
日本古代史ライターとして定着しつつあります、コーノ・ヒロです。
今回も、古代・邪馬台国(ヤマタイコク)に関する記事で書かせてもらいます。
今回からは2回連続で女王・卑弥呼(ヒミコ)の死の謎について取り上げます。
よろしくお付き合いください。
関連記事:鬼道の使い手である卑弥呼の女王即位と三国志の関係性
卑弥呼はなぜ死んだの?
卑弥呼の死については、今も尚、謎に包まれているところでしょう。
今回はその謎に迫っていきたいと思います。
卑弥呼の死については、一般的には、老衰のためだったとも、
あるいは敵対する狗奴国(クナコク)との抗争中に戦死したとも言われています。
どちらも事実として証明された訳ではありません。
そんな中、今回興味深い説を見つけましたのでご紹介します。
卑弥呼は殺害された?
これは過去に歴史テレビ番組などにも取り上げられている説でもありますが、
別の観点も含めて書く予定ですのでお楽しみください。
それは、卑弥呼が殺害されたという説なのですが、戦死という形ではありません。
戦場以外で殺害されたというのです。
それを発表したのが作家の松本清張氏です。
以前、清張説として、卑弥呼はアイドル的存在だったのではないかという説を取り上げましたが、
引き続き、ミステリー作家らしい清張探偵による、
「卑弥呼殺害!真犯人を追え!」
というようなタイトルのサスペンスドラマにも
なりそうな説が浮上してきましたので、ご紹介します。
今回は『清張 古代遊記 吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版)を参考にしながら、
その説の真相に迫っていきたいと思います。
それでは、清張探偵は、なぜ他殺だと疑ったのでしょうか?
関連記事:松本清張も注目!邪馬台国(やまたいこく)はどこにあったの?
関連記事:衝撃の事実!卑弥呼はアイドル活動をしていた?通説・卑弥呼伝
卑弥呼はなぜ他殺なのか?
『魏志倭人伝』(倭人伝)には、卑弥呼の死についてこう記述がります。
「卑弥呼以って死す」
「以って」(もってorよって)は原因や理由を表す表現です。
しかし、「倭人伝」にはその理由が書いていないというのです。
その直前の文には、
247年に、卑弥呼は、狗奴国(クナコク)との抗争中、
使者を朝鮮半島北部にあった帯方郡(たいほうぐん)
[帯方郡は、当時、魏の支配下にあった。]に派遣しました。
使者が戦況を帯方郡の太守に伝えると、
時の魏の皇帝「少帝(しょうてい)」から
魏軍の旗印である「黃幢」(魏軍の旗)を与えられることになりました。
さらに帯方郡から「張政(ちょうせい)」という人物を
始め幾人かが共に邪馬台国へ使者として派遣されました。
魏帝からの「詔書」と「黃幢(こうどう)」[魏の旗印]をもたらすためでした。
邪馬台国内にて、張政たちの使節団が、邪馬台国側の大使代表格の難斗米(なしめ)に授けられ、
檄を飛ばしました、という旨のことが書かれています。
これから狗奴国とのさらに大きな衝突を予感させる文脈です。
しかし、その後、急に「卑弥呼以って死す」という文が出てくるのです。
「何を(に)以って」なのかが分からないのです。
理由を濁しているようにも見えます。
濁しているということは、女王にとって不都合なことだったのでしょうか?
つまり、敗けたのでしょうか?
清張探偵は敗けたと見ています。
それでは、敵国の狗奴国の人間に秘密裏に暗殺されたのでしょうか?
否、犯人は邪馬台国内の人間だというのです。
というより、国内の人々と言ってよいでしょう。
関連記事:倭国 「魏志倭人伝」 から読み取る当時の日本、邪馬台国と卑弥呼を分かりやすく解説
関連記事:邪馬台国ってどんな国だったの?まさに神っていた邪馬台国
卑弥呼を殺害した犯人は?
清張探偵によると、卑弥呼は、狗奴国との抗争の敗戦の責任を取らされ、
倭国連合の首長たちによって処刑されたというのです。
その根拠というのが、正史『三国志』の「東夷伝」(とういでん)の
中の「夫余伝」(ふよでん)の章に記述されているというのです。
[「夫余伝」(ふよでん)とは、中国東北部に勢力を張っていた夫余族について書かれた章です。]
その中に「麻余王(まよおう)」の死の記述があります。
それによると、麻余王が、天候不調による不作を、
王の不徳によるものとされ、処刑されたというのです。
古代の王は、天候不調による飢饉や敗戦などの責任を取らされ、
処刑されたケースが多かったというのです。
清張探偵は、これを有力な根拠としたようです。
さらに、卑弥呼の処刑は、事前に帯方郡の太守にも知らされており、
魏王朝の代わりに群の権威で認めたと
清張探偵は考察しています。
帯方郡、つまりは後ろ盾の魏王朝に、処刑のお伺いを立て、それを認められたというのです。
それに「よって(=以て)」、「卑弥呼死す」というのです。
しかし、この処刑説には異論を唱える人もいます。
それが、前回も取り上げた保坂俊三氏です。次回は保坂説の異論を取り上げつつ、
より深く卑弥呼殺害説ついて探っていきたいと思います。
お楽しみに。
参考文献
『清張 古代遊記 吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版)
関連記事:曹真が余計な事をするから邪馬台国の場所が特定出来なくなった?
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—