鄧艾(とうがい)。蜀を滅ぼした立役者として知っている方も多いと思います。そんな鄧艾ですが、実は蜀を滅亡させる戦で孫子の兵法書を応用することで、蜀討伐作戦を計画して実行に移していくのです。
では鄧艾はどのように孫子の兵法書を引用して作戦を計画して実行に移していくのか。今回は鄧艾と孫子の兵法書についてご紹介していきたいと思います。
この記事の目次
鄧艾が引用した孫子の兵法書の作戦とは
鄧艾は蜀討伐作戦で、総大将である司馬昭(しばしょう)へ孫子の兵法書を応用した進言を行います。鄧艾は司馬昭へ「総大将。『敵の防備がない所に攻撃を行い、敵の不意を突く』と孫子の兵法書の計編に書かれております。」と進言。司馬昭は鄧艾の進言をすぐに採用することに。
こうして鄧艾は孫子の兵法書をパクった作戦が採用されると蜀軍の手薄なところに攻撃を仕掛けることになるのです。では鄧艾はどのような経緯でこの作戦を進言することになるのか。そして鄧艾が孫子の兵法書を応用した作戦は成功したのでしょうか。経緯をご紹介していきたいと思います。
蜀討伐初戦:姜維の退路を断つべく巧妙に立ち回るが・・・・
魏の最高権力者であった司馬昭(しばしょう)は自ら指揮を執り、鍾会(しょうかい)や鄧艾達に命令を下して蜀を討伐作戦を始動。鄧艾は蜀の大将軍で魏軍を迎撃に出撃してきた姜維(きょうい)率いる蜀軍の退路を断つべく進撃を開始。
鄧艾率いる魏軍は姜維軍と激戦を繰り広げながら、姜維が漢中へ退却するルートを巧妙に切断していきますが、漢中付近に近づいて来るとこの地に詳しい姜維に先を越されてしまい、漢中へ退却させてしまうのでした。
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鍾会と鄧艾:蜀の防衛線である要害・剣閣に攻撃を仕掛ける
鄧艾は姜維を逃してしまったため鍾会(しょうかい)率いる軍勢と合流。鄧艾軍と鍾会軍は姜維が逃亡した蜀軍の防衛地点で、要害の地である剣閣(けんかく)に向けて進軍を開始します。
両軍は姜維の軍勢が立てこもっている剣閣の地に到着すると全軍に攻撃命令を発します。鄧艾軍と鍾会軍は火の出るような猛攻を剣閣に対して行いますが、剣閣の姜維率いる蜀軍を突破することはできませんでした。
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鄧艾:孫子の兵法書を応用して蜀討伐作戦を進言
鄧艾はこのまま鍾会と一緒に蜀の防衛線である剣閣を攻め続けていてもらちがあかないと考え司馬昭へ作戦内容の進言を書き記した手紙を送ることにします。鄧艾は司馬昭へ「姜維は私に敗北して剣閣に立てこもっております。しかし剣閣は要害の地であるためそう簡単に陥落することはできないでしょう。
そこで横道にそれて山中へと軍勢をいれて、道なき道を突き進みます。すると剣閣と蜀の首都である成都(せいと)の真ん中に位置する地点に、出ることが調査の結果明らかになりました。もしこの地点に我が軍が出現すれば、剣閣の守備兵たちは成都へ引き返すことになり、剣閣は簡単に陥落することができるでしょう。
また剣閣に篭城している姜維の蜀軍が成都防衛に動かないとなれば、蜀の守備軍が少ない成都まで我が軍が突き進んで陥落させてしまえばいいのです。孫子の兵法書も『敵の防備なきところを攻撃し隙を突くべし」と述べております。今、敵軍の守備兵が少ない地点を攻撃しようとしているのですから、勝利は間違えないことでしょう。私にこの作戦をやらせてもらえないでしょうか。」と進言。司馬昭は鄧艾から蜀討伐作戦のアドバイスを聞いて早速「しっかりやれ」と返信。鄧艾は司馬昭からの手紙を受け取ると軍勢をまとめて山の中に入っていくのでした。
孫子の兵法書を応用した作戦その1:守備の手薄な場所を攻めるため道なき道を進む
鄧艾は軍勢を率いて山道に入っていくことになります。しかし鄧艾が進軍することを希望した山道はとんでもないところでした。まず山の中にはほとんど道らしき物がなかったため、山に穴を開けて道づくりから始めなくてはなりませんでした。そして道が無いということは峡谷と峡谷を結ぶ橋も当然ありません。そのため鄧艾は山中の道なき道を突き進んでいくために道づくりを行いながら、峡谷と峡谷を結ぶための橋作りを行っていかなくてはなりませんでした。
崖を登って行く時には鄧艾は兵士達に紐を結びつけて木にしがみつきながら行軍。鄧艾は崖を下って行く時には、毛氈(もうせん=獣の毛を加工して織物のように仕上げたもの)を自分の体に巻きつけて転がって崖を下っていったそうです。こうした過酷な登山を数百キロに渡って行いながら、なんとか蜀の江由(こうゆう)に到着することができ、この地の守備隊長であった蜀の将軍は鄧艾軍の姿を見てびっくりして一戦もすることなく、降伏することになります。
孫子の兵法書を引用した作戦その2:守備兵の少ない最後の防衛ライン綿竹へ攻撃
鄧艾は江由の蜀の将軍を降伏させると蜀の首都である成都ヘ向けて進撃を開始。蜀の将軍であった諸葛噡(しょかつせん)は、成都防衛の最終ラインである綿竹に軍勢をいれて鄧艾軍を待ち受けます。鄧艾は魏軍を率いて綿竹に到着すると息子である鄧忠(とうちゅう)と師簒(しさん)に命じて、守備兵が少ない蜀の最終防衛ラインである綿竹へ攻撃を行うよう命令を下します。しかし鄧忠と師簒は諸葛噡が篭城している綿竹を攻略することができずに敗北。
鄧艾は激怒して「お前ら!!ここが魏と蜀の一戦を決める大事な戦いであることをわかっているのか。もう一度チャンスをやるからなんとしても綿竹を攻略してこい。もしもう一度ここに戻ってきたらどうなるかわかっているだろうな」と脅迫。鄧忠と師簒は鄧艾の激怒に触れてビビってしまい、
すぐに軍勢を率いて綿竹に向かって猛攻をかけます。その結果、鄧艾軍は大きな犠牲を払いながら綿竹を攻略し綿竹を守備していた諸葛噡·張遵(ちょうじゅん)らを討ち取ることに成功。こうして綿竹を攻略した鄧艾は軍勢を成都に向けて進軍していくのでした。
蜀討伐が終わりを告げる
鄧艾は成都近辺にある雒(らく)に到着すると蜀の皇帝・劉禅の使者がやってきます。劉禅の使者は鄧艾に対して「ここに蜀の皇帝が保有していた玉璽と降伏文書をだずさえております。 」と述べます。鄧艾は「よっしゃー!!」と小躍りして喜んで劉禅の降伏を受け入れることに。こうして蜀討伐は終わりを告げることになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は蜀討伐において孫子の兵法書を応用した鄧艾の作戦についてご紹介させていただきました。しかしここで一つの疑問が沸いてきませんか。それは鄧艾がいつ孫子の兵法書を学んだのかと言うことです。鄧艾の幼い頃は父が早くに亡くなってしまったため、母親と二人で生活をしており勉学に励んでいる暇はなかったでしょう。
では一体いつ学んだのか。レンの推測ですがもしかしたら鄧艾は、仕事を行いながら孫子の兵法書をしっかりと学んでいたのではないのでしょうか。仕事の休憩時間や家に帰宅した後、戦で行軍している時になどに孫子の兵法書を読んで、兵学について学んでいたのかもしれません。このように仮定するであれば、鄧艾はかなりの努力家でありこのような努力を怠ることなく続けた人間だからこそ、蜀を討伐する大きな功績を立てることができたと言えるのではないのでしょうか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志 今鷹真・井波律子著など
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