三国志の大事件の一つに数えられる呂布(りょふ)による董卓(とうたく)暗殺、一般には、董卓が呂布に手戟を投げつけるなど、横暴な振る舞いが増えた、呂布が董卓の侍女に手を出しその発覚を恐れた、呂布の裏切り癖などが殺害の原因ですが、実は、董卓の死は呂布個人の確執ではなく、并州人VS涼州人の対立の結果だったかも知れないという説があるのです。
董卓の配下には涼州人と并州人がいた
董卓の力の源泉である騎馬兵ですが、そこには大きく二つの流れがありました。一つは董卓の故郷である涼(りょう)州人を主体とする騎馬兵、そしてもう一つは、涼州の隣の并(へい)州出身者による騎馬兵でした。
この中で涼州を代表するのが、李傕(りかく)や樊稠(はんちょう)、胡軫(こしん)であり、并州を代表したのが、呂布や張遼(ちょうりょう)でした。董卓は、当初、この二つの派閥を上手く使い政権を安定させていたのです。
董卓の運命を暗転させた長安遷都
しかし、董卓が反董卓連合軍の勢いを恐れて、洛陽を焼き払い、長安に遷都した辺りから、涼州閥と并州閥の立場は変化していきます。長安は董卓の本拠地の涼州に近いので、人材は涼州出身者に偏るようになり并州出身者は、本拠地から離れた事で不利になって勢力が減少、それに伴い優遇されなくなっていくのです。
董卓は、多数派を占め、かつ、同郷人である涼州閥を露骨に優先したので、次第に并州閥に不満が高まっていきました。その筆頭には、董卓のボディーガード、呂布がいたという事になるわけです。
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王允の呂布勧誘の一言は「同じ并州出身」だった
そんな呂布に反董卓の司徒、王允(おういん)が接近したのはよく知られています。無愛想で警戒心の強い呂布に近づく為に王允が利用したのは、同じ并州出身者であるという同胞意識でした。
これは、并州出身の呂布の警戒心を解かせるだけでなく、優遇されている涼州出身者の悪口を言いやすいメリットがありました。涼州人が涼州人の悪口を言いだせば、「なんだこいつ?」と思われますが、同じ并州人の王允が涼州人の悪口を言う分は呂布には違和感がないのです。
王允が呂布を唆す過程には、あまりに優遇されている涼州閥から、并州閥に権力を取り戻そうではないか?という殺し文句も入っていたとKawausoは推測しています。その根拠として、董卓を殺害した後、王允が言ったと言われる、涼州人は皆殺しにするという風聞があります。デマか本当か、涼州人への脅しか分かりませんが、その風聞には、涼州人に比較して不遇だった并州人の恨みがあったと考えられるのです。
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長安を出た呂布の配下と長安に入った李傕の配下
董卓を倒す事は出来たものの、王允の政治は董卓に劣らぬ粛清の嵐で、すぐに人心を失います。やがて、董卓の弔い合戦で攻めのぼってきた李傕と郭汜率いる涼州閥により呂布は手勢数百騎で長安を追われてしまうのです。
彼の配下には、出身地不詳が多いのですが、例えば張遼(ちょうりょう)秦宜禄(しんぎろく)、韓暹(かんせい)は出身地が并州となっています。一方で、呂布の配下で涼州出身者は、楊奉(ようほう)だけです。こうして、考えると呂布の軍団は当初から、并州人で組織されており、長安から呂布について逃げたのも大半は并州人でしょう。
そして反対に、李傕の部下や仲間は、樊稠、胡軫、張済(ちょうさい)楊定(ようてい)、さらに軍師、賈詡(かく)も涼州人でした。ここに、董卓暗殺の政変に、涼州人と并州人の勢力争いがあったと考えるのは穿ち過ぎではないと思います。