西暦230年冬、蜀(しょく)の魏延(ぎえん)はたった一万の軍で魏(ぎ)の涼州(りょうしゅう)に踏み込み、蜀の幕府がある漢中(かんちゅう)から直線距離で600kmも離れた臨羌(りんきょう)まで行きました。
臨羌は冬にはマイナス20℃にもなる極寒の地です。この行軍は対魏作戦で大きな効果を上げましたが、目的はそれだけでなく、蜀の内部に対する魏延のデモンストレーションでもあったのです。
蜀の内部における魏延の位置
蜀が魏に対する遠征、いわゆる北伐(ほくばつ。北の隣国である魏の討伐)を行うにあたり、蜀の丞相(じょうしょう。総理大臣みたいなもの)諸葛亮(しょかつりょう)は、山脈を越えれば魏領に進攻できる漢中(かんちゅう)盆地を拠点とし、幕府を開きました。
漢中で軍隊をゴリゴリ鍛えて魏をつぶしに行く体制です。その際、軍のトップはもちろん諸葛亮です。魏延は諸葛亮が漢中に幕府を開く八年前から督漢中(とくかんちゅう)漢中太守(かんちゅうたいしゅ)として漢中防衛の最高責任者でしたが、諸葛亮が漢中に入ったことにより、諸葛亮の指揮に従う立場となりました。
はじめての北伐
諸葛亮が第一回目の北伐を行った際、蜀の軍事アナリスト(?)たちはみんなベテランの魏延や呉懿(ごい)を先鋒にするべきだと言っていましたが、諸葛亮は陣頭指揮の経験がない馬謖(ばしょく)を抜擢しました。
その馬謖が街亭(がいてい)の戦いでしくじったため、諸葛亮は泣いて馬謖を斬ることになりました。魏延の目線から考えると、あ~あ、俺を使ってくれりゃあよかったのによ、って思っちゃうとこですね。
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【北伐の真実に迫る】
魏延の不満
正史三国志の魏延伝には、次のような記述があります。
魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、いつも一万の兵を要請して、諸葛亮と違う道をとり潼関(とうかん)で落ち合って、韓信(かんしん)の故事にならいたいと願ったが、諸葛亮は制止して許さなかった。魏延はつねに諸葛亮を臆病だと思い、自分の才能が充分発揮できないのを歎きかつ恨みに思っていた。
魏延は一万人の別働隊を率いてのサンドイッチ作戦を諸葛亮に提案していたんですね。自分が長安の向こう側の潼関までゴリゴリ進軍して行くので、丞相にはふつうに進軍して長安のこっち側に出て頂いて、両方から長安を挟み討ちにしちゃいましょう、という作戦。
それを魏延はいつも提案し続けて、諸葛亮は却下し続けていたんですね。魏延が諸葛亮を臆病だと思ったということは、諸葛亮は「だめだよ、そんな危なっかしいこと」とでも言っていたんでしょう。たった一万で潼関まで行こうっていうのは、たしかに危険です。はるばる山を越えて敵地のまっただ中に行くので。ピンチになっても誰も助けに来てくれません。現実的じゃない、と諸葛亮が考えるのも、ごもっとも。
俺はやれる!証明してみせる!敵中に一万こっきりでも平気だもん!
ここで冒頭に述べました西暦230年のデモンストレーションになるわけです。極寒の極地、孤立無援の一万人。根拠地から直線距離でも600kmも離れた土地への行軍。こんなことは並の人間にはできませんが俺はやりますぜ。丞相が長安挟撃作戦を却下するのは俺のことを並の人間だと思っているからで、並じゃないことが証明できればやらせてくれるはず。そう考えて、魏延は敢えて危険な極寒の極地へ踏み込んだのではないかなと、私は考えております。
このデモンストレーションの実行を諸葛亮が許したのは「ったく、いっつもいっつもうっせえなぁ。じゃあ試しにやってみろよォ。野垂れ死んでも知んねえかんな」という程度の気持ちだったことでしょう。このデモンストレーションは大成功に終わり、涼州では敵の大物である郭淮(かくわい)を魏延の軍と諸葛亮の軍でサンドイッチにしてフルボッコにしております。
三国志ライター よかミカンの独り言
デモンストレーション、成功しちゃいましたけど、諸葛亮はどう思ったでしょうね。「うぉっ、やるなあ。じゃあ次はやってみっか、長安サンドイッチ」という気になったのか、それとも「チッ、失敗させるはずがまずいことに……ますます奴の増長を押さえがたくなるわい」とでも思ったのか。想像は尽きませんが、本当のところはご本人にしか分りませんね。
参考:
ちくま文庫 正史三国志5 (訳文引用元)
学研歴史群像シリーズ⑱【三国志】下巻
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