三国時代を終わらせた晋王朝。晋王朝の基礎を作ったのは諸葛孔明(しょかつこうめい)のライバル司馬仲達(しばちゅうたつ以下司馬懿)です。
司馬懿は曹芳(そうほう)の時代に政敵・曹爽(そうそう)をクーデターで打倒して、曹魏政権の中で権力を手中に収めることに成功しますが、曹爽を倒したから司馬懿が曹魏政権内で権力を確立したわけではありません。
ではどうして司馬懿が曹魏政権で権力を確立することができたのでしょうか。それは司馬懿が人材と屯田が関係していたことをご存知でしたか。今回は司馬懿が曹魏政権の中で権力を確立することができた二つの理由について、ご紹介したいと思います。
司馬懿が権力を確立した理由その1:優秀な人材を用いる
司馬懿は曹爽を打倒した際、彼に味方していた優秀な人材達を自らの陣営に取り込むことに成功。一度敵対していた人材を自らの陣営に入れた際、もう一度反旗を翻す可能性があり、危険だったのではないのでしょうか。
司馬懿は上記の危険性をしっかりと考えて、ある作戦を発動します。それは司馬懿が取り込んだ人材達へ儒教を尊重するように提案。もしこの提案を飲めないのであれば、自分の陣営に取り込まないようにします。この作戦の結果、司馬懿の陣営には曹爽の味方をしていた王基(おうき)や裴秀(はいしゅう)達が仲間になります。
こうして司馬懿の陣営には優秀な人材が揃い、曹魏政権内で司馬家の権力確立を助ける事になるのです。さて次は司馬懿の権力を確立した屯田をご紹介しようと思うのですが、そもそも屯田とは一体何なのでしょうか。
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そもそも屯田って何!?
中国の真ん中の地域である中原は三国志の形が出来上がる群雄が割拠した時期、戦と黄巾賊の乱などの影響により作物があまり育ちませんでした。
そのため、中原の地域では食糧不足が深刻化し、人が人を食ってしまう地獄のような状況でした。曹操(そうそう)は中原を確保し、後漢王朝・劉協(りゅうきょう)を迎えると、家臣の棗祗(そうし)と韓浩(かんこう)から「屯田やりましょう」と進言を受けます。
曹操は二人の進言を受けて、許で屯田を行うため、流民を募集して、所有者がいない土地を与えて、田畑を耕すようにさせます。曹操は田畑を耕す際に必要な牛や農耕具を流民に貸し与えます。
この屯田の実験は大成功をおさめ許周辺の土地が潤い、多くの食料を生産することになり、軍兵が必要となる食料も確保することができました。そして屯田はその後国境地帯で兵士達が田畑を耕す軍屯(ぐんとん)と流民達が放棄されて政府から付与された屯田民の二つの屯田が行われていく事になります。さてざっくりと屯田を説明しましたが、司馬懿が権力を確立した屯田とは一体何なのでしょうか。
【北伐の真実に迫る】
司馬懿が権力を確立した理由その2:自らの財政基盤を固める為、屯田を行う
司馬懿は曹爽との政争に勝利した事で曹爽が有していた権力を奪い、優秀な人材を用いて自らの権力強化を行い曹魏政権内で確立します。司馬懿は曹魏政権内で独裁権力を確立する事に成功しますが、財政基盤が脆弱でした。
司馬懿は財政基盤を強化するため曹魏政権の財政基盤となっている屯田を奪う事にします。司馬懿は曹魏政権で権力を握ると早速屯田を管理している官職へ自らが引き上げた人材や一族の優秀な人材を配置して、自らの財政基盤を確立していきます。
また司馬懿は農業のプロ・鄧艾(とうがい)から「淮南(わいなん)・淮北(わいほく)地方の軍屯(ぐんとん)を拡大して、司馬懿殿の収入アップを狙うのはいかがですか。」との進言を受けます。
司馬懿は鄧艾からの進言を実行に移して、淮南・淮北地方の軍屯拡大政策を実行に移していきます。司馬懿は淮南・淮北地方の軍屯拡大を行った結果、大幅に収入をアップさせることに成功し、財政基盤を確立するのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
さてここで司馬懿が曹魏政権内で権力を確立したまとめを行いましょう。1人材を取り込んだ事によって曹魏王朝内で司馬家の権力を確立。2淮南・淮北地方の軍屯拡大政策を実行した事で、財政基盤を確立。
淮南・淮北地方の軍屯拡大政策は毌丘倹(かんきゅうけん)の反乱、諸葛誕(しょかつたん)の反乱鎮圧に役立つことになります。司馬懿が曹魏内で独裁権力を握ることができたのは上記の理由が原因となりますが、皆様はどのように思いますか。
参考 SB新書 三国志その後の真実 渡邉義浩・仙石知子著など
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