正史三国志の注にしばしば引用されている『華陽国志(かようこくし)』は四世紀に編纂された中国西南部の地誌です。「華陽」は華山(かざん)の南側、「華陽国」は蜀(しょく)があったあたりのことです。単純に地理的な位置を示しただけですが、字面がみるからに華やかでいいですね。
一方、「蜀」という呼び方はどうでしょう。文字の中に「虫」が入っていて、なんとなく人外魔境のような気配がありませんか?蜀という土地、古代中国人には実際にそれに近いイメージでとらえられていたふしがあります。
大昔は中国だと思われていなかった蜀
蜀には四、五千年も前から文明があり、その担い手は羌族(きょうぞく)の人々でした。黄河(こうが)流域で殷(いん)の青銅器文明が栄えていたのと並行して、蜀でも独特の様式をもつ精巧な青銅器が盛んに作られていました。その文明の高さは殷にもひけをとらないものでしたが、中華文明の中心地である中原(ちゅうげん)から遠かったことと、文化も民族も中原の人たちと違っていたことから、中華の一員とは見なされていませんでした。
古蜀(こしょく)と呼ばれる蜀の古代国家は、中原で周(しゅう)が殷を放伐した際には周に協力したのですが、春秋時代(しゅんじゅうじだい)の諸侯の会盟には参加できていませんし、メジャーな歴史書『史記(しき)』にも古蜀についての記述はほとんどありません。中国の歴史とは関係ないと思われて『史記』にスルーされたようです。
お隣の秦(しん)の人からは「西僻之国、戎狄為隣(西の辺境の異民族国家)」と呼ばれています。言葉も通じなかったそうです。
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秦に併合されてからは流刑地とされた
古蜀は紀元前316年に秦に征服され、秦の天下統一によって中国の一部というカテゴリーに入りましたが、秦代における蜀地方の利用方法は「流刑地」でした。言葉も通じず文化も違う異民族の土地として、中原の目線から見ればリアルダンジョンだったのです。漢(かん)代になっても最初のうちは開発も進まず、異民族ばかりの未開の流刑地とみなされていました。
—熱き『キングダム』の原点がココに—
「蜀」という文字
「蜀」はイモムシをかたどった文字です。古蜀の始祖とされている蚕叢(さんそう)が民に養蚕を教えたという伝説があり、蚕にちなんで蜀という文字があてられたと考えられています。
字の上部にある「目」は「縦目」を表わしているそうで、蚕叢の目が縦であったという伝説を彷彿とさせます。目が縦ってなんじゃらほい、って感じですが、kawauso編集長オリジナルイラストの青銅縦目仮面(せいどうじゅうもくかめん)をご覧頂ければと。目が飛び出したような形になっています。
こういう仮面が蜀のあった四川省の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)から出土しており、これが蚕叢ではないかと考えられています。
「蜀」という文字には古くは「虫」が入っておらず、後に「虫」が追加され、漢代になって今の字形が確立したそうです。「虫」は昆虫だけを指すものではなく、動物全般を指します。「蜀」に加えられた「虫」について、古代の中華の人たちが蜀のことを自分たちとは別種の生き物が住んでいる場所だと思って蔑視してそんな文字で表現したのだとする説があります。
蜀の悲しい歴史
言語や文化の異なる異民族の土地ということで古代の漢族から人外魔境のような目で見られていた蜀ですが、明(みん)末~清(しん)初の動乱の時代に蜀で大虐殺があり、300万人以上あった人口が2万人にも満たないほどにまで激減してしまいました。後に湖北、湖南、広東などから移民が入って土地は復興しましたが、古代からの蜀人はほとんど絶えてしまったそうです。現代の四川語は北京などの北方の方言と近いですが、それは移民の人々が持ち込んだ言葉です。
三国志ライター よかミカンの独り言
三国志の劉備(りゅうび)や諸葛亮(しょかつりょう)が蜀に入った頃は、郊外の集落には現代の四川とは比較にならないほどエキゾチックな雰囲気があったことと思います。そんな昔の風景に思いを馳せながら三国志を読むのもまた一興ではないでしょうか。
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