蜀(しょく)の初代皇帝劉備(りゅうび)が一介の傭兵隊長だった頃、自分を慕ってついてくる民衆を引き連れながら敵の曹操(そうそう)軍の追撃を受けた「長坂(ちょうはん)の戦い」。劉備の家族までが敵の手にかかるほどの修羅場でしたが、その時、劉備の軍師である諸葛亮(しょかつりょう)は三国志演義では現場におらず、難を免れています。
正史の三国志では諸葛亮も同行していたように書かれているのですが、別行動をとったように脚色した三国志演義の意図は一体なんなのでしょうか。そこに見えてくるのは、諸葛亮の「ノアの方舟計画」です。
※三国志演義は歴史書の三国志をもとに書かれたフィクション要素のある歴史小説です
長坂の戦いの背景
当時、自分の地盤を持っていなかった劉備は荊州(けいしゅう)の劉表に身を寄せ、客将として荊州の北方防衛を担っていました。荊州の北にいた敵とは曹操です。曹操は劉備が荊州に入った当初は荊州に本腰を入れて侵攻するゆとりはなく、強敵の袁紹(えんしょう)と、その後を継いだ息子達との戦いに力を注いでいました。
袁氏との戦いに勝利し、その地盤を平定した後、曹操はついに荊州への本格的な侵攻を開始しました。西暦208年のことです。このとき、荊州の主である劉表が病死し、後を継いだ劉琮(りゅうそう)は荊州もろとも曹操に降伏しました。劉備は北方防衛で曹操軍をやつけたことがあり、それ以前にも曹操とは因縁のある間柄であるため、曹操に降伏はせず南に向かって逃走を始めました。劉備には曹操軍が来るのを怖がった市民や劉備を慕う人々が同行し、一行は十数万もの人数にのぼりました。
三国志演義で諸葛亮が別行動をとった経緯
お年寄りや子供を含む民間人が家財道具を持てるだけ持って移動するわけですから、行軍は遅々として進みません。正史三国志には一日の行程は十里あまり(4~5km)であったとあります。三国志演義ではここで諸葛亮が劉備に進言して、援軍を求めるために関羽(かんう)を江夏(こうか)に派遣させています。関羽は孫乾(そんけん)と一緒に兵五百を率いて江夏に向かったことになっています。
さて、その後も民を連れてのろのろ行軍を続けた劉備一行ですが、ある日、諸葛亮がこんなことを言い出します。「雲長(うんちょう。関羽のあざな)どのは江夏へ行ったきり連絡がありませんがどうなったでしょう」
ううむ、らしくないですね。いつも鬼謀神算の諸葛亮が「どうなったでしょう」とは。情報通なんじゃなかったんですか。そう聞かれた劉備は、諸葛亮に江夏へ行って援軍を催促してくれるよう頼み、諸葛亮に兵五百を与え、自分の義理の息子(任侠的な意味で)の劉封(りゅうほう)と一緒に江夏へ向かわせました。こうして別行動となり、諸葛亮は長坂の戦いの惨劇を免れました。
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三国志演義の脚色
正史の三国志では、別行動をとった幹部として名前が挙がっているのは関羽だけで、数百艘の船に避難民を乗せて江陵(こうりょう)に向かっています。乗れるぶんだけ乗せてった感じですね。これだと、無策にすべての民を連れ歩いて修羅場へ道連れにした三国志演義より随分まともです。
三国志演義で民をまるまる道連れにするよう脚色されているのは、民が曹操軍に蹂躙される可哀相な描写をすることで、読者に「曹操め悪いやつ」と思わせるためでしょう。三国志演義は劉備びいきで、その割を食って曹操が悪役にされているので。
それはさておき、三国志演義では別行動をとった幹部に諸葛亮、劉封、孫乾の三人が加わっていることと、随行したのが避難民ではなく兵一千になっていることに、私は注目してみましたよ。これ、「ノアの方舟」なんじゃないでしょうか。
別行動メンバーの脚色の意図を推測してみる
三国志演義で鬼謀神計キャラとして描かれている聡明な諸葛亮ならとっくに気付いていたに違いありません。曹操軍に追いつかれたらひどい目に遭うということに。賢い彼は、計画的に脱出したのではないでしょうか。よかミカンの妄想による諸葛亮の心の声↓
どこかに援軍を求めに行くという口実で、この行列から抜け出したいが、
最初から自分が行くっていうとバックレようとしてるのがばれるから、
まず頑固者で交渉ベタの関羽に行かせてやろう。
で、関羽はぜったい援軍を得るのに手こずるので、
帰りが遅い、おかしいですね、って劉備に言えば、
あいつはぜったい「では先生が様子を見てきて下され」って言うだろう。
そこで俺様は脱出さ。シメシメ。
賢い彼ならこのくらいのことは考えますよ。うん、そうに違いない。また、諸葛亮は曹操軍からの追撃で劉備の身に万が一のことがあった時のことも考えていたのではないでしょうか。
関羽、劉封、孫乾という、劉備との個人的な絆が強く仕事もできるメンバーと、兵士一千。劉備に万が一のことがあったら関羽たちは復讐心に燃えるでしょうから、そのエネルギーを諸葛亮の都合のいい方向に上手に誘導すれば、彼らの能力と一千の手勢を使っていろんなことができるはずです。
援軍を求めに行った先の江夏は呉(ご)の孫権(そんけん)の勢力圏との境界ですから、荊州が曹操に降伏して不安に駆られている孫権をあおって利用すれば元手が兵士一千のみでも錬金術が可能です。三国志演義の作者は、諸葛亮のこういうプランも脳内に描いていたのではないでしょうか。そうとしか思えませんな。三国志演義が別行動のメンバーを変更したのは、諸葛亮の「ノアの方舟計画」を描いたものです。断言。なんの根拠もありませんが。
三国志ライター よかミカンの独り言
かつて、曹操が徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)の部下に父親を殺された時、曹操は復讐のために徐州人を大虐殺したことがあります。諸葛亮は徐州の出身ですので、親戚や知り合いが被害にあったかもしれません。
そんな気の毒な諸葛亮に曹操軍の凶行を目の当たりに見させてトラウマを呼び起こすのは可哀相だという配慮から、三国志演義では諸葛亮を脱出させたのかもしれないな、とも思います。そういう脚色だったら、ちょっと粋ですね。
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