群雄のひとりとして曹操に対抗し、一時は曹操を絶体絶命の窮地まで追い込んだのが西涼の雄「馬超」です。しかし、曹操に敗れてからは放浪を続け、張魯の客将となり、やがて劉備の配下に収まります。そして三国志演義では関羽や張飛と並んで「五虎大将」の一角を担うことになるのです。今回はこの馬超の強さについて注目していきましょう。
異民族の血脈
馬超は長安にほど近い、司隷・扶風郡の出身です。馬超の父である馬騰も同じ地で生まれています。馬騰の父は役人から没落してどんどん西へ移り住んでいきます。そして涼州の隴西郡で妻を迎えるのです。この女性が西方の異民族である「羌」の娘でした。馬騰の母になります。つまり馬超は異民族の羌の血を受け継いでいるのです。
異民族は匈奴や烏丸などいくつもありますが、羌は後漢ともっとも激しく戦ったチベット系の遊牧民族です。騎馬による戦闘に長けた民族として有名で、何度も後漢王朝の官軍の侵攻を受けています。それでも滅びることなく対抗を続けました。
三国志正史による馬超の強さ
三国志正史と三国志演義で描かれ方が大きく異なるのが、実はこの馬超なのです。馬超の強さの面でも描かれ方が大きく違います。三国志正史では、「潼関の戦い」で武勇を発揮し曹操を追い詰めたものの、曹操との和睦の会談の席では、曹操の背後に許褚が控えており襲撃できなかったと記されています。
曹操に敗れてからも果敢に軍を再興し、僻地の城を攻略していきますが、味方の裏切りにもあって妻子を殺害され、張魯のもとに落ち延びています。その後は張魯に兵を借りるもまたも曹操軍に敗れ、居場所を失いました。
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三国志演義による馬超の強さ
一方で演義では馬超の強さは光ります。17歳の初陣で李傕の配下の将を討ち取り、潼関の戦いでは猛将・許褚と一騎打ちを行い引き分けています。さらに張魯のもとに身を寄せてからは、侵攻してくる劉備軍と戦い、猛将・張飛と互角の一騎打ちを演じています。夜になっても松明を立てて一騎打ちを続けたシーンは名場面のひとつです。
馬超は「錦馬超」と紹介され、許褚や張飛と互角に渡り合う武勇と凛々しい容姿から「五虎大将」の一角を担うことに読者はまったく違和感がありません。むしろ馬超の加入で蜀がパワーアップしたと読者の胸は高鳴ることになるのです。蜀びいきの演義ならではの脚色ですね。蜀の名誉のためにも、一将軍として加入した馬超を悪く描くことはしないわけです。
五虎大将としての馬超の武功
そんな馬超ですが、劉備に降ってからの活躍はほとんどありません。存在感を完全に消しています。
功績としては、あの馬超が劉備に降伏したという事実が、益州の劉璋を降伏させる要因になったこと。馬超の人脈を使って、羌との関係性を強めることができたことなどでしょう。演義では諸葛孔明が北伐で羌の軍を破っていますが、正史ではむしろ羌との友好関係を結び、共に魏を攻める方針になっています。ここで馬超の存在価値が高まっているのです。
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三国志ライターろひもと理穂の独り言
潼関の戦いぶりを見ても、馬超が騎馬隊を率いて戦うことに長けていたことは確かでしょう。しかし個人の武で測ったときに、許褚や張飛と互角に戦えるほどだったのかは不明です。もちろん許褚や張飛よりも強かった可能性もあります。
私が特に問題視したい点は、馬超の「孝」や「忠」の感覚です。ここについてはまた改めて別の記事で詳しく紹介しますが、馬超が孝や忠といった儒教の精神をどこまで兼ね備えていたのか疑問が残ります。正直言って、呂布に匹敵するようなあまりよくない印象が強いです。正史と演義で大きくことなるのはこの点になります。軍人にとって「本当の強さ」とは何を指すのか、馬超を見ているといつも考えさせられますね。
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