ハイパーインフレ太師董卓が貨幣経済を破壊した!

2018年7月8日


 

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満寵

 

ハイパーインフレと聞くと、

札束を積み木に見立てて遊ぶ子どもたちの写真が思い出されますね。

 

第一次世界大戦後、ドイツはフランスに多額の慰謝料を吹っ掛けられます。

それを解消しようとした同一政府は苦肉の策として紙幣の増刷を開始。

多額の慰謝料に対応するためにと馬鹿みたいに増刷したそうです。

 

しかし、貨幣経済の恐ろしい所は、その価値が実は一定ではないということ。

大量にばらまかれた紙幣の価値は一気に急落。

 

ドイツでは卵1個が3200億マルクになってしまうなど、

店頭に天文学的数字が並ぶ異常事態が起こります。

 

そんな恐ろしいハイパーインフレ、実は中国でも起こっていたのです…。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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古代中国における貨幣経済の歴史

お金

 

貯・財・買・費・貨などなど、

お金に関する漢字には「貝」の字が含まれることが多いですよね

 

それは、昔は貝が貨幣の役割を果たしていたから。

殷も周も貴重な子安貝を貨幣として使っていたのだそうです。

 

時代が下って青銅の鋳造技術が普及しはじめた春秋時代には

貝貨に代わって青銅器が貨幣の役割を果たすようになりました。

 

最初の頃は青銅器としての価値が尊重されていましたが、

持ち運びが不便なことから小型化していき、

ついには器の形をとらず、今の硬貨のイメージに近いものとなっていきます。

 

しかし、三国時代以上に分断されていた中国大陸では、

地域によって違う貨幣が流通することになります。

韓・・趙・・斉などの国々では鋤の形をした布貨が用いられました。

 

その中でも趙・燕・斉では小刀の形をしていて

柄の部分に紐を通す穴があけられた刀貨が流通。

魏のお金

 

また、韓・魏・趙、加えて秦では私たちが使っている5円玉に似た環銭が流通。

そして、南に陣取る楚では独自の貨幣・蟻鼻銭が使われていたそうです。

 

蟻の頭のような形の貨幣で、貝貨を踏襲したような見た目。

なんと楚では金でできた貨幣もたくさん見つかっているのだそうです。

春秋時代の終わりごろには、人々が金貨や銀貨で高価な買い物をすることもあったようですね。

 

中華統一と貨幣統一

始皇帝

 

秦の始皇帝(しこうてい)によって中国大陸の統一が果たされると、

国によってバラバラだったあらゆる物事が統一されていきました。

 

文字や度量衡、そして貨幣。

銀貨は当時秦で用いられていた環銭・半両銭の形に統一されることになります

 

円形で、中央に正方形の穴があけられており、

「半両」の2文字が刻まれているのが半両銭の特徴です。

秦のお金

 

しかしこの半両銭、ちょっと重たいのが玉に瑕。

私たちが使っている硬貨の中で最も重たい500円玉が7gなのに対し、半両銭は8g。

紐に通してジャラジャラと持ち歩くには重たくて重たくて…。

 

前漢になると、呂后(りょこう)がより軽い硬貨を作るよう命を下し、

1gにも満たない楡莢銭(ゆきょうせん)を流通させます。

 

その後、漢王朝の治世では勝手に銭を鋳造することが横行。

それを禁止する法律を定めたり廃したり、かと思えばまた禁止したり、

そんなことはお構いなしで勝手に粗悪な貨幣を作る輩もいたりでカオスな状態が続きます。

 

そこで立ち上がったのが前漢7代皇帝・武帝(ぶてい)でした。

外周と内周に縁取りを加えて半両銭よりも重たくした銅銭・五銖銭(ごしゅせん)を作ったのです。

以降、五銖銭は唐代初頭まで長きにわたり使われることになったのでした

 

李傕・郭汜祭り

 

 

ハイパーインフレを巻き起こした董卓

董卓

 

戦争をするとその費用が嵩み、国は貧乏になります。

それは、董卓(とうたく)が牛耳っていた末期の後漢王朝でも同じでした。

 

董卓の専横に反発した袁紹たちによる反董卓連合軍との度重なる戦で

経済状況が芳しくなかった後漢王朝。

 

これに対応するために董卓はとんでもない禁じ手を打ってしまいます。

従来の五銖銭よりも軽い上に小さく、おまけに「五銖」の文字がほとんど見えない…。

そんなお粗末な五銖銭は、「董卓五銖銭」「董卓無文小銭」と呼ばれたそうな。

 

董卓

 

そんな代物が市場で従来の五銖銭と同じように扱われるはずなどなく、物価はうなぎ上り。

「董卓五銖銭」は紐で何百枚、何千枚も束ねて取引されるものになってしまいました。

 

董卓の尻拭いは三国で

劉備と孫権と曹操

 

董卓によって混乱した貨幣経済の尻拭いをさせられたのは、

魏・曹操(そうそう)、蜀・劉備(りゅうび)、呉・孫権(そんけん)の3人でした。

 

魏では曹操が董卓以前の五銖銭に戻そうとしますが、

長きにわたる戦いのせいで経済状況が思わしくなかった魏ではなかなかかないませんでした。

 

蜀では劉巴の提案により、五銖銭100枚分の価値を持つ「直百五銖」が発行されました。

しかし、うまくいったのは最初の内だけだったようです。

 

呉でも蜀と同じような五銖銭500枚分の価値を持つ「大泉五百」などの貨幣が発行されましたが、

民間人にはウケが悪かったようで、わりとすぐに回収され、元の五銖銭に戻されたようです。

くしゃみをする董卓

 

その後も貨幣改革の混乱が数百年続いた中国。

死してなおその害悪をまき散らすとは、本当に董卓はどうしようもない人だったのだな…

と思わざるを得ませんね。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

 

元記事:後漢末の貨幣経済を破綻させた、董卓の五銖銭(ごしゅせん)

 

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