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【海の日特集】甘寧だけじゃない三国志に出てくる海賊達を紹介

2018年7月16日


 

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甘寧

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志に登場する海賊は?と言われれば99%の人は甘寧(かんねい)と答えるでしょう。

というより甘寧以外に三国志で海賊やっていた人はいるの?

そう思う人の方が多いかも知れません。

しかし、三国志を調べてみるとあちこちに海賊の姿を見出す事が出来ます。

では、三国志時代の海賊とは、一体、どんな人達だったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志の時代に出てくるのは水賊や湖賊が大半

三国時代の海賊

 

簡単に海賊と言いましたが、この表記は余り正しくありません。

中国において縦横無尽に海域を駆け回る海賊が出てくるのは16世紀の事です。

建国当初から、倭寇(わこう)(海賊)の害に悩まされた(みん)王朝が海禁策を取って

中国人が海外に出る事を禁じた時期に相当します。

 

これにより、それまで交易で食べてきた沿岸の人々が生活の糧を奪われ、

やむなく禁を侵して海賊行為を為すようになったので倭寇が増えてしまい、

嘉靖大倭寇(かせいだいわこう)と呼ばれる大海賊時代が生まれてしまいました。

 

それ以前の賊というと、河や湖水が無数に流れる中国内部の

河川や湖を根城にする水賊や湖賊がそれに該当していました。

ただ、やっている事は海の上も水の上も大して違わないので、

ここでは統一して海賊として紹介致します。

 

甘寧だけが海賊じゃない!天子を自称した身の程知らず張伯路

張伯路

 

さて、ここでは甘寧以外の海賊について紹介します。

三国志より70年程前の事、青州の山東地方に張伯路(ちょうはくろ)という海賊が出ます。

この山東という所は黄海(こうかい)に面しているのですが、内海になっていて、

陸沿いに船を出すと安全に移動できる地域でした。

 

対岸は後漢王朝が間接統治していて、異民族が雑居している遼東なので

青州で荒稼ぎして、逃げ込むのは都合が善かったのでしょう。

後述しますが、この黄海を伝って遼東公孫氏も青州を荒らしています。

 

この張伯路という海賊ですが、赤い頭巾に赤い服を着て将軍を自称しました。

手下は3000名と言われ、パフォーマンスが上手かったのか人民に人気があり

沿海の九郡で略奪して県令などを殺害し、囚人を逃がしたりしました。

この頃は、大変な異常気象で人民も政府の収奪に苦しんでいて、

食わせてくれる張伯路に付く民もいたのでしょう。

 

張伯路は官軍に攻められると、あっさり降伏しては隙を見て再び団結して叛き

官軍に偽装して城門を開けさせ城を落とすなど知略に富んだ男でした。

 

ついには青州でかなりの勢力を誇り、自作の皇帝の冠を造って被り、

解放した囚人に天子様と崇められたりしていますが、

事態を重く見た朝廷は、王宗(おうそう)に数万の軍勢を与えて送り込み

青州刺史の法雄(ほうゆう)が兵を指揮して張伯路を破り斬首・溺死者数百という

手柄を立て、その後遼東に逃げた張伯路を先回りして斬り反乱を鎮めました。

法正

 

ちなみに法雄のひ孫が、劉備(りゅうび)の軍師として

(しょく)獲りに貢献した法正(ほうせい)です。

法雄は公私混同の無い清廉な人だったようですが、法正は智謀以外は、

曽祖父には似ていないようですね。

 

海賊を組織した遼東の王 公孫度

公孫度

 

二人目の海賊は、遼東で王を自称した公孫度(こうそんど)です。

遼東の公孫氏は幽州の端っこなので、陸の勢力で海賊には縁がなく、

異民族や山賊のイメージですが、実際にはそうではありません。

 

西暦200年頃の公孫度の時代には、対岸の青州の混乱に乗じ

黄海に船を出して略奪行為を繰り返し、しまいには青州の一部を占拠して

営州を設置して刺史(しし)を配置しています。

 

はい、ここで気が付いた人もいるでしょうが、

遼東の公孫氏の支配地は上で紹介した張伯路が荒らしまわった土地と同じです。

黄海は海とは言え内海なので、小船でも内陸に沿って進めば座礁(ざしょう)せず

また、遼東は後漢王朝の支配力が弱いので、青州で略奪して、

その後、追っ手を避けて逃げ込むには都合がよい土地でした。

 

公孫度は、70年前に張伯路のやった事を引き継いで混乱に乗じて、

海賊集団を味方につけ青州にも進出したわけです。

 

しかし、この公孫氏の海賊にも最期の日がやってきました。

西暦239年、魏に反旗を翻した公孫度の孫にあたる公孫淵(こうそんえん)配下の海賊が

黄海を往来して呉と通好しているのを見た汝南(じょなん)太守の魏の田豫(でんよ)

時期が晩秋である事から海賊船の帰還時は必ず大風が吹くと予想、

船を停泊して危難を避けられそうな浅瀬に兵を配置して備えました。

 

その推測通りに大風に煽られた海賊が座礁を怖れて陸に上がると

待ち構えていた田豫は一斉に攻撃しこれを残らず捕らえています。

かくして、公孫淵は手持ちの海賊というか海軍を失うのです。

   

孫堅お前もか?三国の一角は元海賊だった!?

孫堅

 

三国の一角を占める孫呉の基礎を打ち立てた最強将軍孫堅(そんけん)

彼には、17歳の頃に父と共に船に載って銭唐に到着した時に、

海賊の湖玉(こぎょく)が奪った財宝を港で山分けしている場面を目撃

それを退治しようと父に持ちかけ「お前がすべき事ではない」と

諫められると、たった一人で岸に登り捕り手を指揮しているような

素振りをし慌てて逃げた海賊を追いかけて、一人を斬り捨てた

英傑エピソードがあります。

 

あっぱれ!江東の麒麟児(きりんじ)と手放しで讃えたい所ですが

ちょっと待ってよく考えてみましょう。

17歳のカタギの青年が、かくも用意周到に海賊を手玉に取れるでしょうか?

 

財宝を山分けしている最中という踏み込まれたらお仕舞いという場面で

警察の真似をして捕り手を指揮する素振りで海賊を慌てさせる心理戦の(うま)

そして海賊を逃げるに任せて、一番遅い一人を斬り捨てる合理的な様子・・

 

まるで、普段から海賊の習性を観察して知り尽くしているようです。

そして、父の一見、息子を気遣うようなセリフですが、

原文では、「非爾所圖也:お前が指図すべき事ではない」という意味で

「出来ない事もないが、その仕事はお役人の領分だろう」

そう言っているように聞こえないでしょうか?

 

豪族の呉氏に禍を為す程の暴力・・

孫堅・孫策

 

また、孫堅は年頃になって、豪族の呉氏の娘を(めと)ろうとして

呉氏の一族に猛反対され呉氏を激しく恨んでいます。

この時に呉氏の娘は「私一人の事で禍を招かないで下さい」と言い、

一族の反対を説き伏せて孫堅の嫁になるのですが、

まるで、孫堅が呉氏に怒鳴り込んで危害を為しそうな口ぶりです。

 

単純な身分違いなら、拒否されたら泣く泣く諦めるだけでしょう。

報復してやるというのは、ちょっと尋常ではありません。

まして豪族の呉氏なら、それなりに家人もいて自衛も出来る筈です。

 

 

 

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