いい部屋ネットが必要?三国志時代の家事情




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洛陽

 

衣食住というように、人間らしい生活の基盤を築くのには家が必要です。その家にしても賃貸か持ち家か、いやいやマンションかで、何がお得かで結構悩みますよね?

 

では、三国志の時代の家事情とはどんなものだったのでしょう?

 

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元々、家を賃貸する発想は無かった

 

中国においては魏晋(ぎしん)の前には、貸家というものはほぼ見られません。厳密に言うとあったのでしょうが、それは知人や縁戚を頼るもので銭を徴収するという発想にならなかったようです。

 

韓信

 

楚漢時代の韓信(かんしん)は、貧乏時代に亭長(ていちょう)(警察を兼ねる最低ランクの吏)の家に居候(いそうろう)をしていますが、韓信が少しも働かずにブラブラ過ごしているのを亭長の妻が煙たがるようになり、寝床で自分だけ飯を食って韓信に与えないなど露骨に待遇差別したので、韓信は憤慨(ふんがい)して亭長の家を飛び出しています。

項羽にキレる韓信

 

もし銭を取っているなら、このような仕打ちはないでしょう。この頃の人口では、縁戚や知人を頼れば、事足りたのであり供給は多くても需要は少なく貸家は成り立たなかったと考えられます。




前漢時代にはどんな変化があったのか?

 

前漢時代の詩人、司馬相如(しばそうじょ)臨邛県(りんきょうけん)の大富豪、卓王孫(たくおうそん)の娘でバツイチの卓文君(たくぶんくん)に琴の腕を披露した事が縁で()れられます。しかし、貧乏人の司馬相如が婚姻を申し込んでも反対されると考えた二人はその日の内にさっさと駆け落ちしてしまったのです。

 

案の定、卓王孫は怒り、卓文君には財産を分け与えないと決めて勘当してしまいます。

 

司馬相如

 

その後、卓文君は臨邛県の繁華街に酒場を開いて自らホステスになり司馬相如は上半身裸で召使のように働いてお金を稼ぎました。この時に酒場を開いたお金は、卓文君の私的な財産だったようで当時の女性が自分の財産を持っていた事を裏付けています。

 

ただ、酒場を賃貸で借りていた様子はないので、まるごと買ったか新しく建ててしまったかも知れません。

 

北伐の真実に迫る

北伐  

三国志時代の家事情

孫策と周瑜を引き合わせる袁術

 

三国志の時代の家事情については、孫堅(そんけん)に引き連れられて故郷を出た孫策(そんさく)や呉夫人が揚州舒県(じょけん)の周家を頼った話が参考になります。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)

 

呉志周瑜(しゅうゆ)伝には、周家は道の南の大宅を孫策に提供し、孫策の母にも堂に登って拝礼し、足りない物資は融通して補ったとあります。堂というのは、建物の形式で周囲を壁で囲まない吹さらしの空間です。中国の建築様式では中庭の奥にありますから、大宅の名に恥じない大きな屋敷だという事が分かります。

 

 

しかし、孫策から金銭を取って賃貸したという記述はありません。当時、周家も魯粛(ろしゅく)に倉を一つ分けてもらわないといけない程であり豊かとは言い難い経済状況なので、やはり当時、家を貸して、お金を取るという発想は無かったのでしょう。

 

社会の安定により人口が増え、首都は手狭になっていく

三国志のモブ

 

借家は魏晋時代に始まると言いましたが、その大きな原因は社会の安定でした。曹魏王朝は洛陽を帝都とし、それが晋に禅譲されて統一がなると、洛陽は、さらに大きくなっていきました。

 

陸雲

 

田舎の呉から、洛陽に登ってきた陸雲(りくうん)が洛陽の壮麗な宮殿に度肝を抜かれてその晋の礎を造った曹操(そうそう)をリスペクトするようになったのは有名な話ですがそれほどに洛陽は拡張され、人口は増加したのです。

 

ですが、中国の都市は例外なく城壁に四方を囲まれています。人口が増えたからと言って、ホイホイ城壁を拡張して都市を大きくするのは費用も労力も甚大ですから、早々出来ません。かと言って区画整理された都市で、新しい建物を次々と建築するのもスペースの問題で出来ないわけです。

 

そうなると人口は過密になり住居は不足し、家を貸して金を取る賃家業という商売が生まれる事になります。唐の時代の長安は100万都市なのですから、その過密ぶりは、かなりのものになり、長安で持家があるのは元々地元に住んでいる人か大変な金持ちだけになっていくわけです。

 

たった一日の賃貸から染物屋の隣家のレンタルまで

三国志時代の民家

 

そのような事情なので、最初に家をレンタルし始めたのは貧しい庶民でそこから士大夫の階級へと拡大していきました。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

北史に記述がある魏晋南北朝(ぎしんなんぼくちょう)時代の刑劭(けいしょう)という人の記録には、「借りし部屋は染工と隣す」とあり、彼の家が賃貸だった事と、その隣が染物業者の家であり、粗末な貸家であった事が窺がえます。

 

同時代の劉ボウという人物は、「妾をして屋を借り酒を()らしむ」とあり、やはり家を借りている事が分かります。

 

定住できず貸家を転々とする人々

貸家を転々とする人々

 

唐代の有名な詩人である白楽天(はくらくてん)の弟の白行簡(はくぎょうかん)が8世紀の終わり頃に書いた李姓伝(りせいでん)という小説には、「昨日一人ありて、この院を借り、いまだ陽を暮れずして去る」とあり貧しい士大夫は貸家でも定住できず、転々と住処を変えていた事が分かる内容になっています。

 

 

北宋の徐積(じょせき)は、「屋を借るは楊子に宅なき為なり、官を休むは、武昌の魚の為にあらず」と詩に詠んでいます。魏晋時代以後、都市が発展し人口が増えると、住宅事情はより悪くなり、持ち家は夢のまた夢で、多くの人々は貸家を借りながら転々と居住地を変えていったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志の時代頃までは、都市の人口もさして多くなく住宅事情は大して悪くなかったようです。賃貸業と言うビジネスもなく、家もすぐに見つかったようです。しかし、社会が発展して唐の時代に100万都市が出現すると、人口の過密がエライ事になり、住宅事情は悪化して、賃貸家屋が生まれたという事のようですね。

 

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