諸葛亮が天下三分の計を唱え、その言葉通りに魏・呉・蜀の三国が鼎立してひしめき合っていた三国時代ですが、三国の国力が拮抗していたかといえば決してそんなことはありませんでした。
やはり、中国大陸のど真ん中ともいえる中原を支配した魏が圧倒的な力を誇っていたのです。そんな魏でしたが、ついに中華統一を果たすことは叶いませんでした。政治力・戦力・経済力その他諸々、どれをとっても最強だったはずの魏はなぜ天下を統一することができなかったのでしょうか
その理由を3つにまとめてみました。
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実質的に三つ巴ではなかったから
三国時代といえば、三つ巴の乱戦を思い浮かべる人も少なくないでしょう。しかし実際には三つ巴というよりも、魏VS蜀&呉というようなありさまでした。
このような様相を呈するようになったのは、あの有名な赤壁の戦いの頃からです。長坂の戦いで曹操にコテンパンにやられ、命からがら逃げ延びた劉備は、諸葛亮を派遣して呉の孫権と同盟を結び、魏をどうにかしてもらおうと考えます。
一方、呉の国内でも、強大な魏を相手に戦いを挑むか、それともやはり降伏を申し入れるかで意見が対立していました。意見が対立していたと言っても、抗戦すべきだと主張していたのは魯粛くらいでした。
しかしそこに、ちょうど蜀からの使者である諸葛亮が同盟の話を持って訪れたのです。同盟を組んだ蜀と呉は曹操の10万を超える軍勢を赤壁で見事撃破します。
赤壁の戦いの後、蜀と呉とは荊州をめぐって衝突しますが、魏と蜀が争いだすと呉が魏を攻めはじめ、魏と呉が争いだすと蜀が魏を攻めはじめるといった具合にいびつながらも両国の同盟関係は続きます。
どちらかを叩いているともう一方が出てくるモグラ叩き状態に魏はもうてんてこ舞い。一度に二国を相手にしなければならなかったために、魏は天下統一の夢を果たすことができなかったのです。
曹操が曹丕に冷たかったから
曹操は赤壁の戦いで大敗したことによって「こりゃあ天下統一はまだまだ先だな…」とあきらめモードに入ったと言われています。急ごしらえともいえる寄せ集めの大軍勢で蜀や呉を一気に片付けようと事を急いていた自分を反省した曹操は魏国の基礎固めに専念しようと考え直したのでした。
このときすでに知命、すなわち五十を優に超えていた曹操。自らの手で天下を統一することは不可能であると悟った彼は、我が子にその夢を託したのです。
曹操の野望を継いだのは、魏の初代皇帝となる曹丕です。しかし、彼は文武両道の優れた人物ではありましたが、曹操が心から後継者にしたいと望んだ人物ではありませんでした。
多くの女性を囲っていた曹操にはたくさんの子があり、曹丕はそのたくさんの子どもたちの中の一人でしかなかったのです。
曹操が最も愛したのは、曹丕ではなく曹沖という神童ともいえる存在でした。曹沖は頭脳明晰なだけではなく、仁徳も高かったため、曹操はぜひ曹沖を後継者にしたいと考えていたのです。
しかし、曹沖はたったの13歳で亡くなってしまいます。このことによって曹丕が曹操の後を継ぐことが決まったのですが、曹沖が亡くなった際、曹操は我が子である曹丕に向かって次のような言葉をぶつけています。
「お前にとって曹沖の死は最高の喜びなのだろう。
このおかげでお前が私の後継者になれたのだからな。」
この言葉は曹丕の心に深い傷をつけたことでしょう…。
曹操が曹沖の死後に心を切り替えて曹丕を励ます言葉をかけていれば、
魏の命運も変わっていたかもしれません…。
曹丕が身内に冷たかったから
曹沖の死後、曹丕と弟・曹植との間に後継者争いが勃発。曹植の文才を讃える父・曹操にヤキモキしたり、曹植を祭り上げる勢力の存在にイライラしたりと曹丕はおだやかではない日々を過ごすことになります。しかし、曹丕が名実ともに曹操の後継者として君臨してからはムカつく曹植とその側近たちに復讐を遂げた曹丕。
曹植についている鼻につく側近は処刑し、曹植本人も中央から遠い場所に飛ばし、落ち着いたころにまた別のところに飛ばすという嫌がらせを死ぬまで繰り返したのでした。こうして目下の不安要素をつぶして安心していた曹丕でしたが、その死後、重臣・司馬懿に謀反を起こされてしまいます。
曹丕が身内に厳しかったがために皇族の力が弱かった魏は司馬懿によってうまいこと乗っ取られ、結局天下統一を果たすことができないままに滅ぼされてしまいます。
三国志ライターchopsticksの独り言
最期のときまで「もっと身内同士仲良くしたい」と訴える詩や文を綴っていたという曹植。もしも曹植の言葉を曹丕が聞き入れていたら、魏は天下統一の野望を果たすことができたかもしれません。
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