河北の戦いで曹操と決戦を行った袁紹。袁紹は曹操よりも大軍を率いて曹操と戦ったにもかかわらず敗北してしまいます。袁紹はどうして曹操に敗北したのか。袁紹の敗因は劉備の義弟・関羽が原因だったかもしれません。
官渡の戦いをさくっとおさらい
袁紹は大軍を率いて南下し、曹操と天下をかけた戦を行います。袁紹は白馬の戦いで勇将の顔良を派遣して、曹操軍に勝負を仕掛けます。結果ははじめての三国志の読者なら皆さん知っている通り、顔良は関羽に討ち取られ、白馬を攻撃した袁紹軍は曹操軍に敗北してしまいます。
袁紹は白馬攻略と勇将を失っても気にしないで曹操軍へ攻撃を続行しますが、顔良と同レベルの猛将文醜も白馬攻略後の戦いで曹操の策略に嵌って亡くなってしまいます。袁紹は自分の軍勢の大きな攻撃力の要因を占めている二将軍を失いながらも、曹操との戦を継続していくのでした。
その後は皆さんが知っている通り、袁紹軍は官渡の戦いで曹操軍に敗北し、袁家はじわじわと河北を曹操軍に侵されて滅亡してしまうのでした。袁紹と曹操の戦いをざっくりとおさらいしてみました。もっと細かいことははじめての三国志のサイトにいっぱいありますので、そちらをご参照してください。官渡の戦いはおさらいできたけど関羽ほとんど袁紹の滅亡原因に関係ないじゃんと思っている方も多いと思いますが、しかし袁紹が官渡戦の敗北した原因の大きな要因を関羽が担っているのです。
袁紹軍の攻撃力の要は顔良と文醜
袁紹軍の攻撃力の要を担っていたのは顔良と文醜と言えるでしょう。顔良は官渡の戦いが始まる前にはすでに勇将として他国にも有名な武将で、孔子の子孫・孔融も曹操へ「顔良は袁紹軍で一番強い武将ですな」とアドバイスしています。
そして顔良に次いで文醜が袁紹軍の中で有名な勇将と言えるでしょう。袁紹はこの勇将二人を軍勢の攻撃の要として頼りにしてたことは、簡単に推測できると思います。
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袁紹の敗因は軍の攻撃力の低下が原因?
どうして袁紹が官渡の戦いで敗北した原因が関羽にあるのでしょうか。それは関羽が袁紹軍の攻撃力の要を担っていた顔良を討ち取ってしまったからです。もし関羽が曹操の客将として白馬の戦いに参加していなかったら戦況はおおきくちがっていたと思います。
戦において敵軍を打ち砕く突破力は戦に勝利をもたらすための大きな要因の一つと言えるでしょう。本当に顔良は武勇に優れていたのか。それを証明する評価が正史三国志に残っています。袁紹軍の軍師・沮授は顔良を「武勇に優れている」と評価していることから、軍勢を率いて敵軍を打ち破ったり、敵将を討ち取ったりする武力に優れていた事を推測することができるでしょう。
袁紹は顔良が関羽に討ち取られた所で、文醜を温存しておけば、官渡の戦いはもう少し違った展開を見せたかもしれません。しかし文醜も曹操に討ち取られてしまい、軍の攻撃力を一番引き出すことのうまい将軍二人が居なくなった事で、袁紹軍の攻撃力が低下することになり、そのまま官渡の戦いを始めてしまい、大敗北してしまうのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
袁紹が官渡の戦いで敗北した理由をまとめてみましょう。一つ目は袁紹軍の攻撃力の要である顔良を関羽が討ち取った事で、袁紹軍の攻撃力は大きく低下。二番目は顔良に次いで袁紹軍の攻撃力の要を担っていた文醜までも討ち取られしまい、攻撃力の低下を回復することができなくなるくらいの損害を出すことにそして三つめは軍の攻撃力が低下した状態で袁紹は曹操軍と一大決戦を仕掛けてしまった事といえるでしょう。
そして関羽が官渡の戦いの敗北、理由の内二つまでを築いてしまったため、袁紹が官渡の戦いでは敗れるべくして敗れたといえるのではないでしょうか。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書など
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