潼関の戦いの見せ場の一つに賈詡の偽手紙によって、韓遂と馬超が仲違いし曹操が勝利を得た場面があります。これにより、手紙一枚で人間関係を崩壊させる賈詡の神算鬼謀が轟くわけですがそもそも本当に親密な関係にある者同士が手紙一枚で関係崩壊するでしょうか?
詳細に潼関の戦いを見ていると、最初から馬超と韓遂には、不協和音が存在していたようなのです。
この記事の目次
韓遂と馬超の仲違い1 父の代からの遺恨
第一には、韓遂は父の馬騰の仇敵であるという事があります。馬騰と韓遂は、北方の袁家が衰退した頃から不仲になっていて、韓遂は馬騰の妻子を殺してしまう程に憎悪しあっていました。その後、鍾繇が間に入り、曹操の仲裁で仲直りしますが、これは表面上の事であり当然遺恨は残ったでしょう。
馬超は乱を起こす上で韓遂を父とも思うと言いましたが、切羽詰まっての挙兵ですし、韓遂の方も、内心はともかく、周囲の軍閥と異民族が立ち上がれば、ひとりだけ嫌というのは親曹操と見られる危険もあり、渋々従ったというのが実情でしょう。
韓遂と馬超の仲違い2 戦略の食い違い
韓遂と馬超は、曹操をどう迎え撃つかの戦略も正反対でした。馬超は、曹操に黄河を渡河させずに、潼関の隘路に封じ込めておき、兵糧切れを狙って退却させると同時に、機動力のある騎馬で曹操軍の背後に回り込んで挟撃し曹操を討つという戦略を描いていました。
一方で韓遂は、曹操に黄河を渡らせてから、ゲリラ戦を展開し騎兵で補給を脅かし散々に苦しめてやればよいと発言し対立、結局、韓遂の意見が通り曹操の渡河を許してしまいます。ところが渡河した曹操は、兵車を横倒しにして木柵で補強した甬道を設けて補給を安全にしてしまい、韓遂のゲリラ戦は全くの空振りに終わります。「だから俺の言う通りにすればよかったのだ!」作戦を潰された馬超は韓遂を恨んでおり、関係は悪化しています。
韓遂と馬超の仲違い3親和的な韓遂と独立志向の馬超
韓遂と馬超は、漢王朝に対するスタンスも違いました。曹操に和睦条件として黄河以西の領土割譲を要求し、関中で独立した存在でいたい馬超に対し韓遂は、李傕・郭汜政権では官位を受けており、210年に雍州で叛いた張猛を討伐する際も漢王朝の許しを受けて官軍として討伐しています。
もちろん韓遂は、完全に曹操の飼い犬になる気はないですが、自分の土地の自治を認めてくれれば協力するのもやぶさかではないとオープンな姿勢だったようです。その節操のなさが30年の反乱人生を可能にしたのでしょうが、いずれにしても独立志向の馬超に比べれば煮え切らない態度でした。交馬語の逸話でも曹操に恭しく一礼するなど、一定の敬意を払っており、それも馬超には気に食わない事であったと考えるのは無理筋ではないと思います。
馬超と韓遂の仲違い4言語の壁
韓遂は漢語も異民族の言葉にも通じるバイリンガルでした。一方で馬超は人生の大半を涼州で過ごしていて、異民族の信頼は厚いですが漢族のエリアでの人心は得ていません。恐らく、馬超の漢語レベルは、それほど高くないと思われます。その証拠として、二人は曹操と和睦の会談を持っていますが、韓遂が曹操と親しく話すのに対し、馬超は言葉を交わした様子がありません。
単身でいる曹操の隙を突き拉致しようと企むも、許褚に睨まれ断念する話がある程度です。これを見ると、馬超は曹操と会話している韓遂の漢語を理解できず、その親し気な様子から韓遂の内応を疑うようになったこのように推測できるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
このように4つの不信が積み重なり、疑心暗鬼になった所に、賈詡の偽手紙が届き、馬超は見事に嵌められてしまったというのが離間の計の実相ではないでしょうか?手紙が届く前に馬超と韓遂にはつけ込めるだけの心の隙が出来ていて曹操はそれを利用して賈詡に謀らせたのでしょう。
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