【濡須口の戦い功労者列伝】濡須塢を築き二度も曹操軍を撃退、呂蒙

2018年10月13日


 

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呂蒙

 

赤壁(せきへき)夷陵(いりょう)の戦いに比べて地味な扱いをされる濡須口(じゅしゅこう)の戦い。しかし実際には、魏においては蜀攻略以上に重要な作戦に位置付けられ、特に、第三次濡須口の戦いは魏軍も呉軍もオールスター総動員で戦っています。そこで、今回は呉の存亡の(とき)濡須口の戦いで功績をあげた呉将を紹介ご紹介卓抜した戦略眼で濡須塢を築いて魏軍を撃退した呂蒙(りょもう)を取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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濡須口に塢を築かせて三次にわたる戦いに貢献する

炎上する城a(モブ)

 

呂蒙が登場するのは、第一次濡須口の戦いの時です。この頃、呉軍は濡須口で北岸の魏と対峙していましたが、砦の類はまだなく、戦争がない時には呉軍は船上に待機していて、必要に応じて、上陸して攻撃を仕掛ける方法を採用していました。しかし、船の上は決して安全とはいえず、董襲(とうしゅう)が率いた巨大楼船五隻は夜中に突風を受けて舵を失い横転、沈没する憂き目に遭い董襲も水死同じく、蒙衝(もうしょう)を率いていた徐盛(じょせい)の船も北岸に流されてしまい曹操軍に拿捕(だほ)される所を、徐盛の武勇で奪い返した所でした。

 

 

甘寧 ゆるキャラ 三国志

 

 

その後、甘寧(かんねい)が100の騎兵で40万の曹操軍に奇襲を加えて、見事に成功すると言う快挙もありましたが、呂蒙の不安は去りません。

 

 

 

船では厳しい追撃には対応できない

カンチョーされる孫権

 

西暦209年、陳蘭(ちんらん)梅成(ばいせい)灊山(せんざん)に立て籠り曹操に反旗を翻します。孫権は韓当(かんとう)を派遣して救おうとしますが、曹操が派遣した張遼(ちょうりょう)臧霸(ぞうは)于禁(うきん)張郃(ちょうこう)によって反乱は鎮圧されています。この時、孫権の援軍は上陸して陳蘭を救おうとしていますが、臧霸が来たので退却しようとしますが、追撃が厳しいので乗船できず多くの兵士が川に飛び込んで溺死しました。呂蒙はこの事件を忘れていなかったようです。そこで、水軍頼みにしないで、中州に塢を築いて危うくなれば塢に逃げ込んで籠城しようと考えたわけです。しかし、勇敢で向こう見ずな呉の将軍たちは、塢の建設を余計な事と嫌がります。必要な場合だけ上陸して敵を攻撃し、危うくなったら足を洗って、船に逃げ込めばいいのだと主張しました。

行軍する兵士達b(モブ)

 

ここで呂蒙は、相手の追撃が激しければ、必ずしも安全に船に避難できないと主張しています。書かれてはいませんが、臧霸のケースも口に出したと考えれます。かつて、陳蘭を救助しようとして神出鬼没の臧霸に散々やられた事をトラウマにしているモノも多かったのでしょう。孫権は呂蒙の提案を入れて、濡須塢(じゅしゅう)を建設しました。この塢は二つあったようで、塢と塢の間には城壁を築いています。城壁が三日月のように湾曲していたので偃月塢とも呼ばれていました。

 

一騎打ち

 

 

第二次濡須口の戦いで臧霸を撃退

第二次濡須口の戦いで臧霸を撃退

 

第一次濡須口の戦いでは、あまり活躍の場は無かった濡須塢ですが、217年の第二次濡須口の戦いでは、大きな役割を果たします。この時には、朱然が濡須塢を防衛していましたが、張遼と臧霸の攻撃を朱然は一万張の弩で迎え撃ち、この為に布陣さえままなからない張遼と臧霸は退却せざるを得ませんでした。ここで呂蒙の軍勢が攻勢に出て、魏軍を散々に打ち破り、曹操は退却を決意する事になるのです。戦いは長引き、春3月に長江の水かさが増えてくると魏軍は諦めて濡須口から引き揚げて呉軍は勝利します。

 

 

 

呂蒙の死後も魏軍を撃退した濡須塢

奮闘する曹仁

 

呂蒙の死後、西暦223年には魏の名将、曹仁が濡須塢に襲いかかります。この時には、魏は三方面作戦を取り、江陵、洞口(どうこう)も戦場でした。曹仁は濡須塢の兵力を減らす為に、羨渓(せんけい)を落とすと虚報を流し、濡須塢を守備していた朱桓(しゅかん)は、これに引っ掛かり兵力を派遣してしまい塢の守備兵は5000人までに低下します。

行軍する兵士達a(モブ)

 

勝機と捉えた曹仁は、総攻撃を加えますが、朱桓は持ちこたえ、曹仁の息子の曹泰(そうたい)が率いる本隊を火攻めで撃破し、別動隊の常雕(じょうちょう)を配下の駱統(らくとう)厳圭(げんけい)が破り、将軍の王双(おうそう)を捕虜にし常雕を戦死させる功績を挙げました。もちろん、これは虚報に引っ掛かっても気落ちせずに、逆に濡須塢が弱体化したかのように装って曹仁を誘い込んだ朱桓の力も勝利の原動力です。ですが頑強な濡須塢が存在すればこそ、少ない手勢で曹仁を撃破できたという事は疑いなく、呂蒙の先見の明が(うか)がわれます。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

濡須塢(じゅすう)の存在がもしなければ、呉軍は従来通りに船上と陸を往来して、魏軍を攻撃するスタンスを崩さなかったかも知れません。これでは、夜襲などで慌てた時には、呉兵は船に戻る事が出来ずに、次々に河に飛び込んで溺死する事態は避けられなかったでしょう。かつて、大敗をした経験を無駄にせず塢の建設を願い出た呂蒙はやはり偉大な都督だったのです。

 

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赤兎馬はカバ

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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