劉備は諸葛亮へ「馬謖は口ばかり大きなことを言って、実力を伴っていないから彼に大きな仕事を任せてはいけない」とアドバイス。しかし諸葛亮は劉備のアドバイスを無視して、馬謖をめちゃくちゃ可愛がっていたのです。諸葛亮は劉備のアドバイスを無視するぐらい馬謖のことを可愛がりますが、彼のどこが気に入って可愛がったのでしょうか。
馬謖を可愛がる諸葛亮
諸葛亮は劉備の死後、人並外れた才能を持った青年・馬謖を参軍に取り立てて、戦術について語り合っていたそうです。諸葛亮は劉備から「馬謖を使うときは大きな仕事を任せないほうがいい」とアドバイスを受けていたにもかかわらず、このアドバイスを無視して馬謖を取り立ててしまいます。諸葛亮は君主である劉備のアドバイスを無視してまで、どうして馬謖を可愛がったのでしょうか。
馬謖を可愛がった理由その1:人材がいなかった
諸葛亮はどうして馬謖を可愛がったのでしょうか。その理由として蜀に人材が不足し始めたことが挙げられるでしょう。劉備が蜀の皇帝になった頃は人材が豊富でした。例えば将軍クラスには関羽や張飛、馬超、趙雲、黄忠など戦を任せられる人材がいっぱいいます。
また文官には諸葛亮を筆頭として、馬良や劉巴、董和など優れた政治家が多く存在していました。そのため劉備時代の蜀には人材不足とは無縁でした。しかし劉備が亡くなって、劉禅が皇帝となり、諸葛亮が丞相として蜀の国を引っ張って行くことになると優秀な将軍や政治家たちが亡くなってしまいます。また劉備時代には優秀な人材であった人々も年齢には勝てず老いてしまいますが、若い人材が老いた人材と世代交代できるほどではありませんでした。諸葛亮はこの人材不足の状況に陥った蜀で、優秀で年も若い馬謖を可愛がってしまうのは仕方がないことだと思いませんか。
馬謖を可愛がった理由その2:義兄の弟をだから
諸葛亮が馬謖を可愛がった理由その2としては、馬謖が義兄もしくは遠い親類の弟だったからだと思います。諸葛亮と誰が義兄弟もしくは遠い親類関係だったのか。それは諸葛亮と馬良が義兄弟もしくは遠い親類関係だったのです。東晋から宋の初期の歴史家である裴松之は、馬良と諸葛亮が義兄弟もしくは遠い親類関係にあったのではと推測。どうして裴松之は馬良と諸葛亮が義兄弟もしくは親類関係にあると推測したのでしょうか。
裴松之の推測とは?
裴松之は諸葛亮が馬良のことを「尊兄」と呼んでいたから彼らが義兄弟もしくは遠い親類関係にあったと推測しています。いったいどこで諸葛亮もしくは馬良が「尊兄」と呼んでいたのか。調べてみると正史三国志・馬良伝に「尊兄」の記載がありました。
正史三国志・馬良伝によれば益州の劉璋を討伐する戦で龐統が亡くなってしまい、諸葛亮が劉備の元へ向かうことになります。この時、馬良は諸葛亮へ手紙を送っているのですが、この時に馬良が諸葛亮のことを「尊兄」と呼んでいるのです。そのため裴松之はこの手紙から諸葛亮と馬良が義兄弟もしくは遠い親類関係にあったと推測しているのです。そして諸葛亮は義兄弟もしくは遠い親類であった馬良の弟・馬謖を可愛がって取り立ててしまったのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は諸葛亮が馬謖を可愛がった理由を紹介しました。レンは諸葛亮と馬良が義兄弟もしくは遠い親類関係と蜀の人材不足の二つの理由があったと思います。そのため諸葛亮は劉備のアドバイスを無視しても、蜀の人材不足の面を少しでも解消でき、かつ義兄弟もしくは遠い親類関係であった馬謖を可愛がってしまったのは致し方ないことだと思うのですが、皆様はどのように思いますか。
・参考 正史三国志蜀書など
関連記事:【素朴な疑問】馬謖って失敗ばかり強調されるけど手柄とかないの?
関連記事:馬謖が山上に布陣しなければ第一次北伐は成功したの?