【キングダム】李牧の最後の死にザマは悲惨で救いがないって本当?

2019年3月10日




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現在のキングダムにおいて最大の敵、それは(ちょう)李牧(りぼく)と断言して間違いないでしょう。かつて龐煖(ほうけん)をけしかけて王騎を挑発して葬り、合従軍編では秦の帝都咸陽(かんよう)まで肉薄し秦王政(しんおうせい)をギリギリまで追い詰めるような戦いぶりを見せ、現在の朱海平原での戦いでは自らワープ戦法を使い秦軍の左翼の総大将の麻紘(まこう)の首を獲り、一時は左翼を崩壊寸前に追い込みました。

 

敗北する桓騎

 

さらに、史実の縛りから将来は桓騎(かんき)の軍を撃破してこれを殺害するか、または逃亡させるとされています。正しく、秦キラーとも呼べる李牧ですが、どうして彼は強いのでしょうか?

 

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それは簡単に言うと、李牧の最後の死にザマが余りにも悲惨で救いがないからです。だからこそ、その強さをアピールし最期の悲惨な死をドラマチックに仕立てようとするのでしょう。今回は、李牧の最後の死にザマについて解説してみます。

 

自称・皇帝
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キングダムでの李牧の功績

真っ二つにされる魏続(ぎぞく)兵士

 

キングダムの李牧は、知勇兼備で趙の新三大天の筆頭です。初登場は秦趙戦争の終盤で四万の郡を率いて参戦し行軍の速さで王騎を出し抜き、これを討つという大手柄を挙げます。そして、この功績から趙において宰相まで昇進しました。

 

蘇秦(そしん)は合従連衡を行った

 

次に秦を滅ぼす為に六カ国合従軍の発起人として函谷関に50万の大軍で押し寄せ、秦国を滅亡寸前まで追い詰めます。しかし、(さい)攻略戦に失敗して咸陽を落とす事ができず合従軍も敗戦。これにより失脚して匈奴(きょうど)との紛争地辺境の雁門(がんもん)へ飛ばされてしまいます。

 

ですが、その後、どこをどうしたのか始皇帝の八年に宰相に復帰しました。ところが、趙では暗君の悼襄王(とうじょうおう)が即位して佞臣の郭開(かくかい)が政治を取り仕切きったので李牧は政治の実権はもっておらず、もっぱら軍事だけを担当しています。

 

剣を持ち戦う李牧

 

その後李牧は、秦の中華統一事業を阻止しようと単身で咸陽に乗り込み、七カ国が平和同盟を結ぶ事で秦王政の中華統一の野望を諦めさせようとしますが、ただ一国の強大な国家による恒久平和を目指す政とは意見が合わず決裂。

 

王翦

 

秦を必ず叩き潰し滅ぼすと宣言し咸陽を後にしました。現在は秦の狙いが黒羊丘の防御陣地ではなく、鄴である事を見抜いて逸早く王都から南下し戦陣を整えて、朱海平原で王翦(おうせん)と対峙しています。




李牧キングダム 史実の功績1 :  戦わない指揮官

匈奴の劉淵

 

一方で史実の李牧は、キングダムの李牧とは様子が違います。李牧は最初から匈奴と趙の国境地帯の雁門で守備隊の長官をしていました。その戦い方は地味の一言で、給料が安い兵士の為に都市に時々租税をかけては兵士の給与を厚くし、毎日数頭の牛を打ち殺しては宴会を開いて武将達をねぎらい同時に、匈奴のような騎射の術を習わして万が一に備えつつも、基本はスパイと烽火(のろし)を多用した情報網で逸早く匈奴の襲撃を察知して城内に逃げ被害を最小限度に抑えていました。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

そして、兵士達には応戦する事を禁じて、破るものは死刑にすると命じました。このお陰で雁門では、誰も匈奴の危害に遭いませんでしたが、匈奴は悔し紛れに李牧を戦が怖い臆病者と罵り、城内でも匈奴にバカにされても少しも応戦しない李牧に非難の声が上がりました。

 

紂王

 

その噂を聞いた趙王は李牧に「たまには打って出て趙兵の強さを見せつけるように」と命じますが、頑固な李牧は自身のやりかたを一切変えませんでした。

 

漢自慢の弁舌臣下を黙らせる紂王

 

怒った趙王は李牧をクビにして、別の将軍を雁門に派遣しました。次の将軍は積極的に匈奴に戦いを挑みました、しかし、幾ら戦っても趙兵は匈奴に負ける事が多く牛や馬は奪われ物資は取られ、城内の人々はもはや安心して仕事に従事できなくなりました。

 

君主論

 

趙王は、雁門の治安が不安定になったので李牧を呼び戻そうとしますが、李牧は自宅の門を閉じて頑として招集に応じませんでした。怒った趙王は無理やりに李牧を自宅から引っ張り出したので李牧は渋々受けますが「今後、一切、私のやり方に口を出さない事」を趙王に約束させたのです。

 

亡くなる李牧

 

キングダムの李牧もかなり頑固ですが、史実の李牧の頑固も相当なものでした。そして、この李牧の融通が利かない頑固さこそが李牧の最後の悲惨な死に繋がるものだったのです。

 

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李牧キングダム 史実の功績2: 匈奴騎兵十万を全滅させる

三国志のモブ 反乱

 

復帰した李牧は以前と同じように戦わなかったので、また雁門の将兵は不満を持つようになりました。そこで、李牧は重い腰を上げ頑丈な兵車を一千三百、騎馬三千頭を選抜、さらに戦功で百金を得た勇者五万人に弓の名手十万人を配置して大演習を行います。それから大いに家畜を放牧して人民を城外に開放しました。

 

兵士と戦術

 

これを見た匈奴が少し侵入してくると、李牧は勝とうとせずに偽って敗走わざと数千人を城外に置き去りにしました。匈奴の王はこれを聞いてやはり李牧は臆病者と侮り大軍を率いて侵入してきます。ここで李牧は砂漠に多くの陣を配置して匈奴の騎兵を翻弄し、鶴翼(かくよく)の陣を用いて匈奴軍を包囲十万騎の匈奴騎兵を殲滅してしまうのです。

 

鄧禹と兵士

 

これに震え上がった匈奴は、以後十年以上、雁門を襲撃しようとはしませんでした。史実の李牧も将軍としては漫画の李牧に劣らぬ程に優秀だったのです。

 

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李牧キングダム 史実の功績3 : 廉頗に代わり大将軍になり桓騎を破る

 

李牧が雁門の守備隊長から中央に招集されたのは、元々趙にいた廉頗(れんぱ)が趙王と折り合いが悪く紀元前244年に魏に亡命したからです。そこで、趙王は雁門から李牧を呼び出して燕を攻めさせ、李牧は武遂・方城を落とします。それから、二年後には龐煖が同じく燕の劇辛を撃破しました。

 

ホウ煖(龐煖)

 

キングダムでは常にバーサクに掛かっている龐煖ですが本当は大変なインテリ武将です。それから、七年後、秦の桓騎が趙に攻め寄せて趙の将軍、扈輒(こちょう)を破って戦死させ十万の趙兵を斬りました。追い込まれた趙王は、李牧を大将軍にして秦に対抗させます。

 

桓騎(キングダム風)

 

李牧は秦軍を宜安で撃ってこれを撃破し、秦の将軍桓騎を敗走させました。功績により李牧は、趙から武安君に封じられ王族に列する事になります。さらに、それから3年後、李牧は秦が番吾を攻めた時にも迎撃して撃破して、秦が奪っていた南の韓や魏の領地まで取り返しました。

 

項燕

 

史実の秦は戦国時代の晩期はほとんど負けなしですが、唯一趙の李牧と楚の項燕(こうえん)にだけは大敗しています。これだけ見ても、史実の李牧がいかに傑出した人物なのか分かります。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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