夷陵の戦いで戦死した将軍や主要人物は誰なの?分かりやすく解説

2019年3月23日


 

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夷陵の戦いで負ける劉備

 

三国志(さんごくし)の中でも終盤の戦い、そして(しょく)が終わりを迎える原因ともなった戦いが「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」。

 

 

弩(ど)を発射させる蜀兵士達

 

この戦いでどんな人物が戦死したか皆さんは知っていますか?今回は夷陵の戦いでの主要人物で、戦死した人たちを紹介していきたいと思います。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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夷陵の戦いで戦死した人たちはどれだけいたのか?

劉備と孫権

 

夷陵の戦いでは蜀軍(しょくぐん)呉軍(ごぐん)が戦いました。その中でまず蜀軍の戦死した主要人物たちを見ていきます。

 

馮習(ふうしゅう)

王甫(おうほ)

張南(ちょうなん)

傅彤(ふとう)

馬良(ばりょう)

沙摩柯(しゃまか)

程畿(ていき)

 

この7名が戦死した将軍たちです。

またこれ以外に6名が()に降伏しています。

 

劉備

 

夷陵の戦いに参戦している蜀の主要人物は20名ほどなので、半分以上の主要人物が失われました。人数だけで見ると少なく見えますが、部隊を率いている将軍が戦死しているということはその部隊の人たちは全滅していると言っても過言ではないので、どれだけ被害が大きいか想像できると思います。

 

次にこの人たちがどんな人なのかも紹介していきましょう。

 

 

 

戦死した中でも重要な人物だった「馮習」

 

「馮習は領軍将軍に任命され諸軍を指揮した」とされているので夷陵の戦いの指揮官はこの馮習(ふうしゅう)となります。しかしこの名前、聞いたことがないですよね?

 

こんな大きな戦いの指揮官になっていますが、なんと正史でもここが初登場。三国志演技でも出番はなく、いきなり出てきていきなり負けてしまって死んでしまうという謎の武将。

 

 

表情 劉備

 

これは想像ですが、夷陵の戦いの大敗北の原因として劉備(りゅうび)の名前を挙げにくいので、指揮官だった馮習に責任が被せられたのではないでしょうか。そう思うと戦死しているのも相まって、何とも扱いが不幸な武将ですね。

 

ではそれ以外の人たちも簡単に紹介します。

 

 

 

他の戦死した人たちはどんな人だった?

兵士と戦術

 

王甫

 

王甫(おうほ)はとても男前で政治手腕に優れるだけでなく、他人を批評する目も優れていた人物です。三国志演技でも関羽(かんう)の補佐官を務めて進言するなど、頭が良く鋭い観察眼を持った人として書かれています。

 

 

張南

 

張南(ちょうなん)は劉備が荊州(けいしゅう)を治めた頃から仕えていた家臣の一人で、夷陵でも劉備の副将として戦いました。馮習と共に戦い、戦死しています。

 

 

傅彤

 

傅彤(ふとう)は退却する劉備の殿を務めて、劉備を無事に逃がしました。その後、呉の降伏勧告に「漢の将軍が呉の狗に降れるか」と言い返して戦死を選びました。演技でもこの言葉が取り上げられていて、忠義と男気に溢れた武将として書かれています。

 

 

馬良

馬良

 

馬良(ばりょう)は特に優れた人間を「白眉(はくび)」という故事がありますが、その元になった人物です。眉に白い毛が混じっている馬良は優秀な五人兄弟の中でも最も優れていた所から来ています。

 

 

馬良って何した人だっけ

 

 

夷陵の戦いでは異民族を引き連れて援軍に来ましたが、呉の勢いには及ばず戦死。因みに何故か三国志演義では夷陵では戦死していないにも関わらず、この後の南蛮(なんばん)の戦いの直前にいきなり「そう言えば馬良は病死しました」と思い出したように語られます。

 

 

沙摩柯

沙摩柯

 

沙摩柯(しゃまか)は異民族の…とされていますが、どのような人物かはあまり伝わっていません。正史三国志では呉の陸遜伝(りくそんでん)で斬首になったと記載されているのみです。

 

 

程畿

 

程畿(ていき)豪放磊落(ごうほうらいらく)な快男児とされていて、呉軍と船上で戦いましたが敢え無く戦死しました。

 

こうしてみるとどうも知らない、聞いたことがないような人たちばかりですね。というのも全員此処で死んでしまうから、その後の活躍が残っていないのです。

 

 

馬良と孔明

 

恐らく蜀軍は後任育成のためにできるだけ今までに功績を挙げていない武将たちを引き連れ、戦ったのではないでしょうか。

 

そのためによりにもよってここで戦死してしまうことになるだけでなく、蜀の未来もほぼ潰えてしまうだから歴史というのはターニングポイントが色々な所に潜んでいると思います。では蜀に対して呉軍ではどんな主要人物が戦死したのか、それも見ていきましょう。

 

 

呉の人たちの中ではどんな主要人物が戦死したのか?

解煩督 呉

 

これまでに説明したように、蜀軍では主要人物が多く戦死しています。では呉軍ではどんな主要人物が戦死したかというと、実は将軍に当たるような重要人物は戦死していないのです。

 

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

呉主伝では「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」と書かれるほど多くの犠牲を出した夷陵の戦い、しかし呉の主要人物は戦死無し、一般兵の被害も最小限で済んでいます。

 

このことから夷陵の戦いでどれだけの被害を蜀は被ったのか、そしてそれが原因でもう戦うだけの力をなくしてしまったのかが分かりますね。そしてこの後、劉備も病死、蜀はじわじわと衰退していってしまうのです。

 

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

夷陵の戦いで戦死した主要人物たちは、現代から見ればそれほど有名な武将たちではありません。ですがそれはこの戦いで戦死してしまったからで、この戦いを勝ち抜くことができたなら優秀な武将たちとして名前を残すこともできたでしょう。

 

しかし実際にはここで戦死してしまったから、蜀の今後を任せられる人たちもいなくなってしまった…夷陵の戦いはただ蜀が負けただけではなく、蜀のその後も大きく変えてしまう「敗北」になった戦いだったということが戦死してしまった人たちから読み取ることができるのではないでしょうか。

 

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夷陵の戦い

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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