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魏延がいれば陳倉の戦いは勝てた?それとも負けた?史実の北伐を解説

2019年3月24日


 

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蜀の魏延

 

(しょく)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)などの歴戦の将軍亡き後、蜀の軍事面においてトップに君臨していた将軍・魏延(ぎえん)

 

彼は諸葛孔明(しょかつこうめい)の北伐戦に幾度も参加し功績を残していますが、第二次北伐戦には参加しませんでした。歴史にもしもはタブーですが、もし魏延が陳倉城の戦い(ちんそうのたたかい)に参加していれば、勝つことができたのでしょうか。

 

今回は歴史のタブーを打ち破って魏延がいれば陳倉城の戦に勝利することができたのか考えてみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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史実の第2次北伐開始

蜀の魏延

 

魏延がいたら陳倉城を攻略できたのかを紹介する前に、三国志の陳倉城の戦いとはどのようなものであったのか、ざっくりと紹介したいと思います。諸葛孔明は蜀軍を率いて第二次北伐戦を開始。

 

この時諸葛孔明は前年の北伐を顧みて、違う方面から魏の領土へ攻撃を仕掛けます。諸葛孔明の第二次北伐戦は漢中から北上した場所にある陳倉城へ攻撃を仕掛けます。

 

 

 

陳倉城の鉄壁のディフェンスに敗れる

蜀の魏延

 

諸葛孔明は陳倉城に到着するとまず陳倉城を守っている郝昭(かくしょう)と同郷の人間による降伏勧告を行います。郝昭は諸葛孔明が行った降伏勧告を拒否。諸葛孔明は郝昭が降伏勧告を拒否したため、陳倉城へ総攻撃を行います。

 

悪い顔をしている諸葛亮孔明

 

諸葛孔明は陳倉城を攻略するため、大型の攻城兵器による攻撃や陳倉城の地下から城内へ侵入するための穴を掘る攻撃などあらゆる攻撃を陳倉城へ行います。郝昭は諸葛孔明率いる蜀軍の攻撃をすべて迎撃して、蜀軍の攻撃を無効化。諸葛孔明は郝昭が守っている陳倉城へ20日間にわたって総攻撃を行いますが、陳倉城を攻略することができず、撤退することになります。

 

郝昭は蜀軍による20日間にわたる総攻撃を見事耐え抜きます。そして蜀軍は郝昭が健在な間、陳倉城へ攻撃を仕掛けなかったそうです。諸葛孔明が行った第二次北伐における陳倉城攻防戦のあらましを上記で紹介しましたが、ここに魏延が加われば、陳倉城を攻略することができたのでしょうか。

 

if三国志

 

 

魏延が加わっても陳倉城を攻略することはできない!?

負けた魏延

 

諸葛孔明が行った陳倉城攻略戦ですが、果たして魏延が加われば勝つことができたのでしょうか。レンは魏延が加わっても勝つことができなかったと思います。

 

レンはどうして上記のように考えるのでしょうか。

 

 

兵糧の欠乏と魏の援軍があったから

蜀の魏延

 

レンは上記で魏延が陳倉城攻防戦に参加しても勝つことはできないと考えています。その理由は蜀軍の兵糧が少なかったためです。

 

諸葛孔明は陳倉城の守備兵の少なさから、陳倉城攻略にそんなに時間がかからないと考え、兵糧を20日間分しか持っていきませんでした。しかし実際は郝昭率いる魏軍の鉄壁ディフェンスにより、陳倉城を陥落させることができずに撤退することになります。そのため魏延が陳倉城攻略戦に参加したとしても、陳倉城を攻略することは難しかったと思われます。

 

さらに陳倉城攻略戦が始まったとき、魏軍の援軍が接近していました。そのため陳倉城を攻防戦に20日以上の時間がかかれば、魏の援軍と陳倉城にこもっている守備兵との挟み撃ちにあってしまう可能性があります。

 

諸葛孔明は蜀軍に大損害を与えないようにするための作戦を盾居るので、魏軍の援軍が到着する前に軍勢を撤退したと思われます。このことから魏延が陳倉城攻略戦に参加したとしても、蜀軍が陳倉城攻略をすることは無理だったのではないのでしょうか。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

いかがでしたでしょうか。

 

今回はもしも魏延が陳倉城攻略戦に参加していた場合を紹介しました。

もし諸葛孔明が蜀軍を10万以上の単位で動かし、かつ兵糧を潤沢に保有している場合で、魏延が陳倉城攻防戦に参加すれば、陳倉城を攻略することもできたと思います。しかしここで疑問が生まれると思います。

 

どうして諸葛孔明は上記で述べたように数十万の兵力を率いて本気で陳倉城を攻略しようしなかったのか。もしかしたら諸葛孔明が数千しか守備兵がいない陳倉城だから数万の兵で攻略することができると考えていたのか。それとも陳倉城攻略戦はただのおとり作戦だったのか。

 

こればかりは諸葛孔明に聞いて見ないとわかないのが残念ですが、皆様はどのように思いますか。

 

■参考 正史三国志蜀書など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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