孫呉の名将・甘寧。彼は黄祖討伐戦で敵将・黄祖を捕えたり、江陵攻防戦では別動隊を率いて夷陵城を攻略したり功績を残しています。他にも多くの戦で活躍している甘寧ですが、どうして亡くなったのでしょうか。今回は甘寧の亡くなった原因について紹介したいと思います。
甘寧の死因を正史三国志で調べてみると…
甘寧はどうして亡くなったのでしょうか。正史三国志呉書・甘寧伝を調べてみました。すると…。甘寧の死因に関しての記載はなくただぽつりと「甘寧が死去した」と書かれているだけでした。甘寧は孫呉であれだけ活躍しているのに、彼の死因に関してこれだけしか書いませんでした。しかし甘寧が亡くなった理由については推測することができます。
甘寧が最後に活躍した戦から考えてみる
正史三国志では甘寧の最後はただ亡くなったと書かれているだけでした。そのため甘寧の死因は、謎のままで分からないのが現状です。しかし甘寧が活躍した最後の戦を探ってみると、彼の死因についてのヒントが隠されていたので、ここでは彼の最後について紹介したいと思います。正史三国志に書かれている甘寧の最後の戦は、合肥の戦いです。
孫権は張遼たちが守っている合肥城を包囲しますが、この時疫病が発生したことが原因で、合肥城の包囲を解いて撤退することにしたそうです。
張遼は合肥城を守っていましたが、孫権軍が撤退する様子を見て精鋭部隊を率いて撤退する孫権軍を攻撃。甘寧は張遼が撤退する孫権軍へ攻撃してくると、弓矢を手にもって撤退する孫権を守りつつ張遼軍へ反撃します。凌統や蒋欽は孫権を守り、張遼軍の攻撃を防ぎつつ、孫権を撤退させていきます。
孫権は張遼軍の追撃を受けながらも、甘寧や凌統、蒋欽らの活躍によって撤退することに成功するのでした。上記が正史三国志・甘寧伝に書かれている甘寧の最後の活躍ですが、ここに甘寧の死因のヒントが隠されていると思います。さて甘寧の死因のヒントは一体なんでしょうか。それは合肥城周辺で起きた疫病です。
甘寧の死因は疫病だった!?
孫権は合肥城周辺で発生した疫病が原因で合肥城の包囲を解いて撤退したと上記で紹介しましたが、甘寧の死因とどうしてつながることになるのでしょうか。ここからはレンの推測になりますが、甘寧はこの合肥城攻略戦で疫病にかかってしまい、この戦いが終わった後に亡くなったのではないでしょうか。もし上記のレンの推測が合っていれば、合肥の戦い以降に甘寧が死去したと正史三国志に書かれている事とつじつまが合うのではないでしょうか。そのため甘寧は、合肥城攻略戦の時に発生した疫病が彼の死因だったと推測することができると思いませんか。
三国志ライター黒田レンの独り言
正史三国志には甘寧の死因が記載されていませんでした。そのためレンは彼の死因が疫病ではないかと推測しましたが、もう一つの三国志・三国志演義での甘寧の死因はどのように記されているのでしょうか。三国志演義の甘寧の死因をちょっと調べてみました。
三国志演義の甘寧の死因は正史三国志とは違い、しっかりと彼の死因が書かれていました。三国志演義の甘寧の死因は戦で討ち死にしたことが原因でした。いったい甘寧は誰に討ち取られたのでしょうか。
それは劉備軍に参加していた異民族・沙摩柯です。どのようにして甘寧が沙摩柯に討ち取られたのか。三国志演義の甘寧の最後を紹介して終りたいと思います。
三国志演義の甘寧は夷陵の戦いに参加しますが、病にかかっていたそうです。甘寧は病にかかっていながら、夷陵の戦いに参加し、劉備軍に加わった異民族・沙摩柯が放った弓矢が甘寧に直撃し、亡くなってしまったそうです。
■参考 正史三国志呉書など
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