桃園の誓いは劉備・関羽・張飛の三人が桃が咲き誇る木の下で「力を合わせ心を一つにして同年同月同日に死すことを願う」と誓い、義兄弟の契りを結んだシーンです。上記のシーンは非常に有名ですが、関羽と張飛の二人はいつ頃であったのでしょうか。
正史三国志と三国志演義の両方から調べてみました。
この記事の目次
関羽と張飛は正史三国志だとどのような出会い方をしているの!?
劉備三兄弟の中でも武勇に優れた関羽と張飛。二人は劉備と出会う前からの知り合いだったのでしょうか。それとも関羽と張飛は赤の他人だったのでしょうか。
二人はいったいどこで知り合ったのか正史三国志の関羽伝から調べてみました。すると関羽と張飛は劉備が涿県で黄巾賊を討伐するため、募兵をしたときに出会ったそうです。二人は体格が良かったからなのか。それとも二人が力強かったからなのかわかりませんが、劉備の護衛官として仕えることになります。
その後二人は劉備から軍の指揮官として任命され、劉備に可愛がってもらったそうです。また正史三国志張飛伝によれば、関羽と一緒に劉備の護衛官として仕えた際、関羽の方が年上だったため、関羽に兄事したと書かれています。
このことから関羽と張飛は元々知り合いだったわけではなく、劉備の元で偶然出会いそのまま意気投合したと思われます。次に三国志演義から関羽と張飛の出会いを調べてみます。
三国志演義では違う出会い方をしていた二人だが…
関羽と張飛は三国志演義ですとどのような出会い方をしているのでしょうか。三国志演義によりますと張飛は劉備と先に出会ったそうです。張飛は「黄巾賊を討伐するために義勇兵を募集する」と書かれた高札を見ていた劉備と出会い、色々と世間話をして意気投合。
二人はそのまま酒屋に座って現在の世の中についての話や身の上話などをして盛り上がっていました。張飛と劉備が酒屋で話が盛り上がっている所、関羽がたまたま酒屋で盛り上がっている二人を見つけ、そのまま三人で飲みながら、話が盛り上がって意気投合したそうです。その後三人は桃園で誓いを立てて義兄弟になったそうです。三国志演義は正史三国志と出会い方が違いますが、偶然出会った所に関しては一緒でした。しかしどうして関羽だけ、張飛と劉備に偶然出会う形になっているのでしょうか。
関羽だけ違う県で生まれていたから
張飛と劉備は涿県で生まれ同郷でした。関羽は解県と呼ばれる場所で生まれているため、張飛と劉備とは偶然会うことになっているのです。しかし関羽の出身地・解県は涿県からとてつもなく遠い場所にありますが、どうして涿県にまで来ることになったのでしょうか。
関羽は犯罪者だったから
関羽はどうして解県からとてつもなく遠い涿県に居たのでしょうか。それは関羽が犯罪を犯して役人に捕まらない為、涿県まで逃亡していたからです。
関羽は三国志演義によると、解県で豪族の横暴にブチギレてしまい、豪族を真っ二つに両断してしまったそうです。その後関羽は役人に捕まらない為に逃亡者となり、解県から逃げて涿県へ流れ着いたそうです。
そのため関羽は故郷から遠い涿県へ来ていたのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は張飛と関羽の出会いについて紹介しました。
もし関羽が故郷の解県で犯罪を犯さなければ、涿県にまで逃亡することがなかったことを考えれば、関羽をブチギレさせた豪族に感謝しなければなりませんね。なぜならば関羽をブチギレさせた事で桃園の誓いが発生し、劉備・関羽・張飛の三兄弟が生まれたのですから。
■参考 正史三国志蜀書など
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