三国志を読む前は初めから3つの国が存在していて、そこからストーリーが展開。そのように考えていた読者もいると思います。
ここでは古代中国に3つの国が成り立った経緯と劉備の裏の顔について解説していきます。
三国鼎立とは?
「鼎」とは古代中国の金属製の器です。足の部分が三つに分かれており、上の部分が椀の形をしています。三者鼎立、三足鼎立、三分鼎立とも言い、三国志に限らず3つの敵対する勢力が存在する状態を指します。例えるなら、今のアメリカと中国と日本のようなものです。日本とアメリカは同盟関係ですが、貿易摩擦と生み、中国と日本は「資本主義」と「共産主義」という思想面で相対しています。
諸葛亮が悪いのか? それとも劉備か?
すでに曹操は強大な勢力と誇り、呉軍や劉備軍を脅かしていました。諸葛亮は先に荊州を奪ってから、呉軍と組むという提案をします。
ところが劉備は提案を拒否。理由は曹操に降伏した劉琮が親戚筋だったからです。やむなく諸葛亮は君主に従います。ここまでの悪役は諸葛亮でした。親戚の土地を奪って、王様になってしまえというのですから…。
赤壁の戦いが生み出したもの
きっかけは、かの赤壁の戦いでの呉・劉備連合軍の勝利でした。江東の孫権は呉という国を建てていましたが、劉備はまだフラフラしていました。
要するに赤壁の戦いの前までは三国鼎立という状態ではなかったのです。この辺りから悪人・劉備が顔をのぞかせます。荊州の地が赤壁に近かったことから、安心した劉備は荊州南部を戦後のマッカーサーのように占領します。
劉琦の死
やがて、劉備は劉琮の兄弟だった”劉琦”を荊州のトップに仕立て上げるのです。実はこの劉琦、曹操に劉琮が白旗を上げたとき南の地へと逃れていました。劉琦は父親が亡くなったときに死に目に会えなかったことを恨んでいたのです。一年後、劉琦は天に召されます。元々、病弱だったので先は長くなかったのでしょう。こうして荊州トップの地位に空白が生じます。
独立宣言
部下の薦めもあって劉備は荊州トップの座に着きます。三国鼎立が誕生した瞬間でした。劉琦の親戚である劉備が後を継ぐのは自然な流れでした。
しかし、これを快く思わなかったのが呉軍。打倒・曹操を宣言して固く結ばれていた劉備軍を裏切り者と揶揄します。
劉備が独身だったことから、呉軍の大将・孫権は妹(孫尚香)を劉備の妻として推薦します。そして共同作戦によって、赤壁の戦いのように蜀の地を奪おうと画策するのです。
ここで悪人・劉備は孫権の提案を辞退します。理由は明白、荊州の独立国家となった以上、小さくても蜀は自らの力で奪い取るという野心が芽生えたのです。
進軍開始
西暦211年。蜀を治めていたのは”劉璋”でした。彼も劉備の親戚筋です。
しかし、劉璋は人望がなく、劉備に遣わした張松と法正には愛想をつかされていました。
彼らは劉備に兵を出すようお願いするどころか、自らのボスが統治する蜀を奪ってしまえと持ちかけます。さあ、悪人・劉備の登場です。
龐統の薦めもあって劉備は蜀へと足を運びます。
宴会に招待され、劉璋から武器・弾薬を借ります。すべては劉璋サイドは敵の張魯に対抗するためだったのですが、劉備は蜀を乗っ取るために借ります。
西暦212年、呉の孫権から援軍要請が届きます。好機とばかりに劉備は劉璋配下の武将を殺害、葭萌城を占拠します。そして、蜀の都・成都へと向かいます。
さらに馬超を味方に引き入れ、成都を包囲。
勇猛果敢に馬超が入城すると劉備の送った降伏文書に劉璋はサインをしてしまいます。こうして名実ともに三国鼎立ができあがります。
三国志ライター上海くじらの独り言
悪人・劉備は成都包囲から10年後の夷陵の戦いで敗北、病に倒れます。つまり、実質的に三国時代は10年ほどでした。非常に短いと思うでしょう。
世界史の教科書に三国志がほとんど載っておらず、ショックを受けた三国志ファンのみなさん。原因は10年という短すぎる歴史にあったのです。
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