今回は若い頃の織田信長について取り上げます。具体的には生まれてから桶狭間の戦いで今川義元を破るまでの間を中心に紹介します。
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初陣の織田信長
織田信長は1534年に父・織田信秀の嫡男として生まれます。彼の初陣は14歳の頃でした。
今川義元の軍が三河国の吉良大浜に入っていました。初陣の信長は兵800を率いて、今川軍が占領していた大浜を攻めました。信長が火を放ち、夜通し攻撃を続けたことで今川軍が撤退。今川義元はこの敗北が頭から離れず、初陣の織田信長を警戒するようになります。
家督相続後の反信長勢力一掃
織田信秀が1552年に亡くなると、織田信長は嫡男として家督を継ぎます。
当時、信長は異様な風体と粗暴な振る舞いをすることが多かったことから「大うつけ者」と呼ばれていました。信長には弟・織田信勝(信行)がいました。当時、信長が大うつけ者であることから尾張国内で弟の信勝を推す動きもありました。
織田信長は父・信秀が病死すると、反信長勢力を滅ぼします。1555年には清洲城主だった織田信友を滅ぼしました。その2年後に弟の織田信勝が兄信長に対して謀反を起こします。
信長は弟信勝を殺し、1558年には信勝に加担した岩倉城主の織田信安を降伏させました。これをもって遂に織田信長は内紛が続いていた尾張国の統一を達成することになります。
今川義元を手本にした織田信長
織田信秀は小豆坂の戦いで敗れました。その後、安祥城が落とされ、織田家が持っていた三河国を失いました。当時、織田信秀の人質だった松平元康(後の徳川家康)は今川義元の人質になります。
織田信秀は今川義元の鉄砲による集団戦法によって負けました。信秀から家督を継いだ織田信長は今川義元との戦いに備えて、今川義元の軍の組織力に注目しました。しかし、今川義元の領国と比べると尾張一国は小さいことや重臣が信長に対して心から従っているとはいえないことから、今川義元の寄親・寄子制をそのまま当てはめることができませんでした。
そこで、信長は身分の低い若者や二男・三男以下のニートに近い若者と交流するようになります。若者との交流を通して、若者の才能を引き出しました。この若者を積極的に戦う集団として参加させました。この集団の中から滝川一益や前田利家らが誕生します。
桶狭間の戦いとは?
1560年に桶狭間の戦いがありました。桶狭間の戦いは駿河国の大名今川義元が2万5千の大軍を率いて尾張国を攻めました。一方で、織田信長には数千の兵しかありませんでした。
今川義元は尾張国の南半分の城主を織田方から今川方に寝返らせます。今川義元は兵を分けて織田信長軍の砦と城を落とす戦略をとりました。今川義元は織田信長の砦を順調に落としますが、順調に戦を進めたことで油断が生じ、今川軍の組織が乱されていました。
今川義元の軍は気が抜けていると予測して、織田信長は今川義元の本陣の桶狭間に向けて突進します。このとき、今川義元の本陣に入っても兵は抵抗することなく、今川義元の首を討ち取ることができました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は若い頃の織田信長について取り上げました。初陣から桶狭間の戦いまでの織田信長について紹介しました。
最初に今川義元が織田信長を警戒するきっかけになった出来事について取り上げました。初陣の後、織田信長が組織した若者による少数精鋭部隊が尾張国の今川義元の城を落とします。この若い頃の織田信長の戦い方を見て、今川義元は信長を警戒するようになったと考えられます。
今川義元は2万5千の兵を率いて尾張国を攻めます。今川義元にとって大量の兵を率いたことでかえって人身の油断につながったことが誤算だったのかもしれません。一方で、織田信長は桶狭間の戦いを天下統一の足がかりとして全国平定に向けて動きます。
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