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袁紹の勢力拡大ペースがなかなかすごい件!もう少しで『四国志』になっていた?

2019年5月24日


 

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袁紹

 

三国志(さんごくし)の物語前半にて、曹操(そうそう)のライバルとして登場する、袁紹(えんしょう)。この人について、以下のような誤解をたまに見かけます。

 

後継者を決めずにダラダラする袁紹

 

「袁紹は名門の出で、もともと大勢力をもっているところからスタートしたボンボンであり、そこにあぐらをかいていた人物だったために、新興勢力の曹操にあっけなく敗れたのだ」と。

 

今回は、この袁紹(えんしょう)についての考察をしてみたいと思います。というのも、先ほど「誤解がある」と述べた通り、袁紹は名門の出であることは確かですが、彼の勢力圏は、意外にも、彼一代の努力で築き上げたものなのです。

 

袁紹と曹操

 

曹操の陰に隠れてしまいがちな袁紹ですが、彼の勢力の急成長ぶりを見ると、袁紹軍が、魏呉蜀三国の英雄たちの陣営に続くほどのあなどれない強力な存在であったことが見えてくるかと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志演義における袁紹の描かれ方

朝まで三国志 袁紹

 

それにしても演義における袁紹の描き方には、いろいろと言いたいことがありますね。作者の羅貫中(らかんちゅう)が、物語を面白くするために、「ダメリーダー」としての印象を意図的に強調している気がします。

 

袁紹を説得しようとする田豊

 

袁紹は有能な部下の進言を受け入れなかったために滅んでいった、とか、カリスマ性に欠けたため、部下の心をつなぎとめきれなかった、とか、決定的な場面で優柔不断になり機会を逃した、とか、そんな人物に扱われています。

 

袁紹を説得しようとする沮授

 

たしかに、袁紹は歴史における敗者のほうなので、批判や否定をしやすい人物であることには違いありません。

 

兵糧不足に苦しむ袁紹

 

ですが、この袁紹の描かれ方、曹操との対比を強調する意図が見え隠れしているように思えます。

つまり、ダメリーダーとして「典型的」すぎるのです。

 

マンガのようにわかりやすいキャラクター付けをされているように見える、となると、これはやはり、演義の作者の印象操作を疑いたくなってきます。

 

 

 

華北における勢力圏急成長は、袁紹がすごいリーダーであった証拠?

 

そこでこんな試みをやってみましょう。

 

官渡の戦い 騎馬兵

 

これから「官渡の戦い(かんとのたたかい)で敗れる前」までの袁紹の経歴を、もっぱら正史のほうから抜き出し、かつ、「あたかも袁紹が曹操(そうそう)劉備(りゅうび)孫権(そんけん)に続く主人公であるかのように」恰好をつけて書いてみます。

 

亡くなる袁紹

 

曹操に負けた、というところを抜きにして整理してみると、袁紹は、じゅうぶんに三国志の主人公の一翼を担えるだけの豊富なエピソードをもった人物だということが、見えてくるのではないでしょうか?

 

それでは、始めてみましょう。

 

美化された袁紹に羨む袁術

 

袁紹は名門袁家の子として生誕したが、そのことを鼻にかけるようなことはせず、階級差にわけへだてなく友人たちと付き合ったので、たいへん慕われていた男だった。

 

宦官を一掃することを決意する何進

 

漢王朝かんおうちょう)の名将軍、何進(かしん)に目をかけられて、首都洛陽(らくよう)でめきめき出世した。

 

袁紹と献帝と董卓

 

董卓(とうたく)が洛陽を乗っ取ったとき、ひそかに脱出して地方に潜伏。これは「反董卓派」の頭目として周囲から期待されていたための行動と思われる。

 

呉の孫堅

 

反董卓連合軍結成の際、そのリーダーとして推挙された。孫堅(そんけん)や曹操ら、のちのライバルたちを従えて戦った。

 

被害妄想で怯える韓馥

 

反董卓連合軍の解散後、亡命先の冀州(きしゅう
)
で、当時の冀州の支配者であった韓馥をクーデターで追放し、自分が領主に収まる。無血クーデターで見事に自分の拠点を手に入れたことになる。このときは部下たちの進言を取り入れて巧みに事を運んだ。

 

公孫瓚を倒した袁紹

 

袁紹を警戒した公孫瓚軍が、1万の騎馬隊を引き連れて攻撃してきたものと正面から戦い、これを撃破することに成功した。

 

かくして華北(かほく)と呼ばれる広大な地域を傘下に収めることに成功した。当時の華北は中国大陸の中でも特に産業が発達していた先進地域だった為、ここに一大勢力を構築したことで、天下に最も近いポジションを手に入れたことになる。

 

袁紹

 

いかがでしょうか?

袁紹一代での華北での勢力急拡大、なかなかたいしたもの、といえるのではないでしょうか。

 

曹操VS袁紹

 

この後に起こった官渡の戦いで袁紹軍が大敗することで、華北地方は曹操軍に食われるままとなってしまうのですが、そこまでの経歴は、じゅうぶんに英雄として語られてもよい濃さをもっているのです。

 

官渡の戦い特集

 

 

 

まとめ:曹操との直接対決を避けていれば、三国時代ならぬ四国時代になっていた?

袁紹と曹操

 

歴史のIF展開として、たとえば袁紹が曹操との対決を徹底的に避け、華北に閉じこもったまま、他の群雄たちをけしかけて曹操を背後から攻撃させ自分は戦力を温存する長期戦略を採っていたら、どうなっていたでしょうか。

 

中国大陸は、北は袁紹、中央に曹操、南東に孫権、南西に劉備という勢力図に移行していき、三国志ではなく四国志になっていたかもしれません!

 

苛ついている曹操

 

その場合「曹操が一歩有利」という展開もなく、四勢力がかなり拮抗してにらみ合う状況となっていた為、全員に等しく天下統一の可能性がある大混戦となっていたことでしょう。

 

そんな空想をすると、官渡の戦いで袁紹が曹操に敗れたのが、いかに決定的な事件であったかがわかります。これさえなければ、三国時代はどれだけ違った世界になっていたことか。

 

 

三国志ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

・・・もっとも、それってよく考えると、「袁紹は潰せるうちに早めに潰しておかないと危険だ」と曹操が決断したがために起きたのが官渡の戦いであり、やはり曹操の戦略眼が一段上、袁紹はどうしても曹操に滅ぼされる運命だった、という見方もできてしまいますが。。。

 

袁紹にお茶を渡す顔良

 

せめてゲームやマンガの世界では、袁紹に脚光が当たるIF展開がもっといろいろと華やかにあってよいのではないか、などとも、思う次第です。

 

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漢のマイナー武将列伝

 

 

 

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YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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