史実の張飛はどんな人だったの?インテリ層を大切にしていた張飛

2019年7月1日


 

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張飛の虎髭

 

張飛(ちょうひ)(しょく)(221年~263年)の将軍です。活躍時期が後漢(ごかん)(25年~220年)に集中しているので、正しくは後漢の将軍が正しいと思います。

 

五虎大将軍の張飛

 

さて、今回は正史『三国志』の張飛の事績に関して紹介したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長阪橋の戦い

劉琮

 

建安13(208年)年に荊州(けいしゅう)の長官の劉表(りゅうひょう)が亡くなり、子の劉琮(りゅうそう)が後を継ぎました。

 

曹操に降伏する劉琮

 

ところが、劉琮はすぐに曹操(そうそう)に降伏しました。当時、劉表のもとに身を寄せていた劉備(りゅうび)はすぐに逃げましたが、間もなく曹操に追いつかれて惨敗しました。

 

殿を務める張飛

 

この時に奮戦したのが張飛です。張飛は20騎だけで長阪橋に立ちふさがり、曹操軍を見事に防いで劉備を逃がすことに成功します。この話はてっきり、小説『三国志演義』の創作かと思ったら事実だったのですね。

 

 

 



張飛 ロ〇コン疑惑!?

張飛のヨメ

 

建安5年(200年)に夏侯覇(かこうは)の従姉妹が郷里で(まき)拾いをしていたところ、偶然通りかかった張飛に捕まりました。

 

夏侯覇

 

夏侯覇は後年に蜀に降伏する夏侯淵(かこうえん)の子です。ちなみに、捕まった従姉妹は当時13~14歳です。

 

 

張飛がやったことは明らかに誘拐の上に、しかもロ〇コンです。その後、捕まった女の子との間に女の子が誕生しました。敬愛(けいあい)皇后と言い、劉禅(りゅうぜん)に嫁ぎました。

 

夏侯覇の妻は誰?

 

後年に蜀に降伏した夏侯覇に対して、劉禅は息子を指さして「息子は夏侯氏の甥なんですよ」と言った話が残されています。

 

 

名士を大切にする張飛

実は頭がイイ賢い張飛

 

さて、史実の張飛で最も驚く話は名士を大切にしていたことです。名士とは知識階級の人を指します。張飛ファンにとっては、ピンと来ない話です。有名な話が残っています。蜀に劉巴(りゅうは)という知識人がいました。

 

張飛は前から劉巴の噂を知っていたので、ぜひ一緒に食事をしたいと彼に誘いを掛けました。ところが劉巴は張飛に対して何もしゃべらないで、ずっと黙っていました。

 

考える諸葛亮孔明

 

頭にきた張飛は劉巴と親しい諸葛亮(しょかつりょう)に訴えました。諸葛亮が劉巴に注意しますが、彼は驚きの言葉を返します。

「立派な男は英雄と交わるべきです。なんで兵隊野郎と語り合う必要がありますか?」

 

劉巴は慎み深い性格で通っていたのですが、知識人としてのプライドはかなり高い人物だったようです。この返答は庶民出身の張飛に対して侮蔑の意味を持っています。

 

 

下っ端には容赦しない張飛

張飛にボコボコにされる魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)

 

張飛は劉巴のような知識人には、ペコペコ頭を下げますが自分よりも下の位の人間には容赦しなかったようです。どう考えても、これは張飛の生まれに対してのコンプレックスではないかと思います。

 

張飛の寝込みを襲う張達と范彊

 

だが、これは彼の首を絞めることになります。張飛は章武元年(221年)に部下の手により殺されました。劉備は以前から張飛が部下に暴力を振るっていることを何度も注意しました。

 

パワハラをする張飛

 

しかし、張飛は劉備の言葉でも改めてくれませんでした。張飛が死んだ時に、劉備は張飛の都督(部隊の事務長)から書簡が届いた時に「ああ、張飛が死んだか・・・・・・」と言ったそうです。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

この理由は正史『三国志』も北宋(ほくそう)(960年~1127年)の司馬光(しばこう)が執筆した『資治通鑑(しじつがん)』も何も語っていません。ところが、元(1271年~1368年)の時代に『資治通鑑』に注釈をした胡三省(こさんせい)という人物が次の考察をしました。

 

亡くなる張飛将軍

 

文書は将軍から送られるものであり、それが将軍を飛び越えて、都督から直接来たから将軍(張飛)が死んだと察した、と。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が正史『三国志』の張飛にまつわる記事でした。張飛は小説『三国志演義』の影響により、酒豪のおとぼけキャラクターの印象が強いですが、正史にはそのような記述は全くありません。

 

民間伝承の影響が強いようです。

 

※参考文献

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

 

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民間伝承の三国志

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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