三国志の時代には名将と呼ばれる将軍や名軍師として活躍した人物だけでなく、色々な人が登場します。今回紹介する王戎は三国時代から晋の時代にかけて登場し、最高位の権力を手に入れた人です。
王戎は上記だけを見れば一見何の変哲もない有能な政治家だと思われますが、実はチョード級の変人でドけちな人だったのです。
神青年で情の厚い名家出身の人
王戎は徐州琅邪郡出身の人です。この徐州琅邪郡からは蜀の丞相・諸葛孔明や、ロバのように顔の長いと孫権に悪口を言われた諸葛瑾など諸葛家の人々の出生地として知られています。また王戎はキングダムで活躍している王翦・王賁親子の子孫で、徐州琅邪郡の王氏は名族として名声を得ていました。
この徐州琅邪郡の王氏からは王戎の他に東晋の政治家として有名な王導や、書家として名声を得た王羲之など多くの優秀な人材を輩出しています。この徐州琅邪郡・王氏の一員である王戎は名族に相応しい優れた人でした。
王戎は青年時代とっても優秀な人物で、魏の二代目皇帝・曹叡に認められていたため、周りから「神童」として尊敬されていました。
魏王朝へ就職する王戎
王戎は曹叡に褒められながらも魏王朝に就職しませんでした。王戎は魏王朝に就職しないで何をしていたのでしょうか。
王戎は友人として慕っていた阮籍と一緒に詩を作ったり、酒を飲んで楽しんでいたそうです。
その後王戎は時の権力者・司馬昭から招かれたため、魏王朝へ就職。魏王朝に仕えた王戎は河東太守や荊州刺史を歴任します。王戎は晋王朝の時代になると孫呉討伐戦に従軍して、晋王朝に平定された江東の人々の恨みを減らすため、施しを与え政治をしやすいようにしていたそうです。
司馬炎は孫呉討伐戦で功績を残した王戎へ侯の位を与えます。このように王戎は司馬昭・司馬炎から信頼された事で要職を歴任することになりますが、政務にはほとんど興味を持っていなかったそうで、積極的に行政や国の政治にかかわる事をしなかったそうです。
HENJIN・王戎!!
王戎は晋王朝で要職に就いた事で、お金持ちだったはずなのにチョーがつくほどドケチで変人でした。王戎がドケチだったエピソードがいっぱい残っていますので、いくつか紹介したいと思います。
王戎は甥っ子が結婚すると聞いて、一張羅の着物を用意して甥っ子へプレゼント。甥っ子は王戎からプレゼントされた着物を着て結婚式へ赴きます。王戎は結婚式が終わった後、甥っ子へ「こないだプレゼントした着物だけど、お金いつ払ってくれんの??」と常識のある人間なら絶対に言わない発言をサラッと甥っ子へ向けて言ってのけます。
甥っ子は王戎の発言を聞いて絶句していたそうです。また王戎は晋王朝の重職に就いていた裴頠へ娘を嫁がせますが、娘へいっぱいお金を渡して嫁がせます。他にも王戎は家に生えていたスモモを売ってお金を作っていました。
王戎はスモモを買った人が家でスモモを植えて増やさないようにするため、スモモの種に穴をあけて販売していました。王戎は上記で紹介したエピソードの他にもドケチエピソードがいっぱいあります。晋王朝の重職を歴任していた王戎はお金に困っていなかったにもかかわらず、とってもドケチでだったため、変人と見られていました。
三国志ライター黒田レンの独り言
王戎はドケチで変人でしたが孝行者でした。王戎は父親が亡くなったと知り、官職を辞職して郷里へ帰郷します。
王戎は父の喪に服するため、何も食べずに幾日も過ごしていた為、みるみるうちにやせ細っていったそうです。そのため同僚から「死孝」と呼ばれ、晋の皇帝・司馬炎からも王戎がやせ細っている様子を聞いて、心配して薬を送るほど激しく喪に服していたそうです。
変人でドケチな王戎ですが、親に対してはしっかりと親孝行する孝子でした。
■参考文献 三国志武将辞典など
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