酒池肉林の董卓の生活はどのように築かれたのでしょうか。また、地方の武将に過ぎなかった董卓の資金回収法も気になるのところです。董卓の行動を探れば探るほど意外な一面が顔を出すことに。
ここでは三国志演義をベースに董卓の略奪方法について紹介していきます。
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董卓はどうやって墓荒らしをしたのか?
都・洛陽に入った董卓。大臣の入れ替え作戦をスタートします。まず将軍を兼任していた司空や太尉の加節、賜斧鉞、虎賁を郿(現在の陝西省眉県)に左遷します。そして、皇帝・劉協の名で陳蕃などの名誉を回復し、第二次党錮の禁で囚われていた人物を釈放。
彼らの子孫に官職を与えました。そして側近には董卓の息がかかった人物を置き、周りをガードします。同時に袁紹や王匡、鮑信など官職を捨て逃亡した人物らとも「太守」の地位を保証することで和解。
後顧の憂いを絶ちます。都(洛陽)に入ったときに殺害した「何太后」の葬儀を行う際、文陵(漢の霊帝の墓)を掘り起こします。董卓は密かに部下を送り、墓の内部にあった金銀財宝を盗ませたのです。
皇帝やその家族は火葬ではなく、「土葬」というのが古代中国の習慣でしたから、その習慣を逆手にとった墓荒らしと言えるでしょう。こうして董卓は堂々と軍資金を回収することができたのです。権力を手にした董卓は洛陽市民をも襲撃しました。洛陽城内にいる資産家の財産を没収し、若い女性は手籠めにされたのです。
董卓の権力が最高に
略奪を終えた董卓は自らを相国(ナンバー2)と名乗り、皇帝の前でも帯剣を許されました。一般的に皇帝に会う際は、どんなに勲章を取った将軍であろうとも武器は入口で衛兵に預けるもの。理由は皇帝に会うのに武器を帯びるということは、皇帝を攻撃する意志があるとみなされるからです。
謀反以外に武器を持って皇帝の前に現れることは、まずありませんでした。このように常識では考えられないような「帯剣」を許された董卓。このとき彼の権力は頂点に達しました。そして、自分の母親を「池陽君」にして、身内には思い思いの地位を授けます。
袁紹連合に対抗
西暦190年。董卓の残虐さを見かねた武将たちが一致団結。袁紹を盟主に袁紹連合を成立させます。長安の東の方では、車騎将軍を率いて董卓を退治しようと水面下で動いていたのです。
このとき袁紹連合の兵は兖州(山東省)、冀州(河北省)、荊州に3か所に分散していました。同年2月。董卓は「長安遷都プロジェクト」を立てます。しかし、太尉・黄琬と司徒・楊彪は反対。董卓に即刻リストラされます。
併せて「周毖」を殺害しますが、董卓はすぐに後悔。また、長安にいる京兆尹(裁判官)・盖勛と左将軍・皇甫嵩が袁紹連合に加わるのではと心配します。二人の将軍が洛陽に入ると皇甫嵩を過去の因縁を理由に投獄。
牢屋で死んでもうらおうと画策します。ところが事態は思わぬ方向に。皇甫嵩には子どもがいて、名を「皇甫堅寿」と言います。彼は父に代わって必死に牢屋にいる父親を釈放してもらうよう董卓にお願いするのです。董卓と皇甫堅寿の関係は良かったですから、願いがかなったのでしょう。
董卓はやっとのことで皇甫嵩を釈放します。2月17日。後漢王朝は洛陽から「長安」へと遷都します。都としての機能をまるごと移動するわけですから、築地市場の豊洲移転どころの騒ぎではありません。
董卓はそんな大ごとも簡単に成せるほどのパワーがあったのです。
3月5日。
皇帝の劉協を長安の「未央宮」へ移動。董卓は留守になった洛陽で袁紹連合を迎えうつことにしたのです。軍隊を使って住民を強制的に移動。このときに蘭台(後漢政府の図書館)の蔵書もほとんどが失われました。
宮殿や官舎、民家に火をつけ、火事場泥棒を働きます。同時に呂布に指示して、皇帝の墓を荒らし、大臣らの墓にあった宝箱を盗むのです。
三国志ライター上海くじらの独り言
権力を手中に収めた董卓は墓荒らしと略奪によって軍資金を集めました。そのやり方がひどかったため、奸智・董卓の名が古代中国に広まったのです。いくら国の資金を調達するためとはいえ、横暴なやり方に支持者が激減。
徐々にサポーターが減っていきます。頭はよかったのですが、非道で中国の儒教精神にも反する行動。董卓一味が衰退するのは時間の問題でした。しかし、袁紹連合も烏合の衆、最後に董卓退治をしたのは義理の息子の呂布という結果に終わります。
参考書籍:「三国演義(中国語版)」羅貫中/長江文芸出版社、「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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