曹叡は魏(220年~265年)の第2代皇帝です。明帝とも呼ばれていますが、曹叡が有名なのでこの記事では曹叡で通します。
曹叡の側近で有名なのは、なんといっても司馬懿です。司馬懿は魏の初代皇帝曹丕から後事を託されました。さて、今回は司馬懿と曹叡の協力・緊張関係について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「曹叡 司馬懿」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:【どっちの皇帝show】曹丕と曹叡はどっちが名君?
関連記事:【占いで見る三国志】曹魏が倒れることが曹叡の時代に予言されていたってホント!?
曹丕から後事を託される司馬懿
司馬懿は曹操が袁紹を官渡で破った翌年の建安6年(201年)に出仕を命じられましたが、当初は曹操に仕えることを嫌って病気を理由に辞退していました。
しかし、何度も断るうちに業を煮やした曹操から「捕縛してでも連れていく」と言われたので、仕方なく出仕します。さて、出仕した司馬懿は曹丕の教育係に任命されます。この時の同僚に陳羣・呉質・朱鑠がいました。彼らと司馬懿を含めて曹丕の四友と言い、曹丕は非常に重用します。
一方、曹操は司馬懿が凡人ではないことを見抜いていたので警戒していました。だが、司馬懿も曹操存命中は周囲を警戒して頭角を出しませんでした。
やがて曹操は亡くなり、黄初元年(220年)に曹丕は皇帝となります。ところが、曹丕が国政に当たっている時も司馬懿は思った以上の活躍無し。まだこの時代は曹操の部下が存命している時期なので用心していたのでしょう。
黄初7年(226年)に曹丕は亡くなります。遺言により曹叡が後継者となります。また、後見役として司馬懿・陳羣・曹真・曹休が任命されました。司馬懿はこの時になり、ようやく表舞台に立ったのです。
曹叡と後見役 浮華の徒を抑える
即位した曹叡はテキパキと仕事をこなしていきます。特に曹叡が抑え込みにかけたのは「浮華の徒」でした。浮華の徒とは曹叡の時代になって現れ始めた老荘思想(=ユートピア思想)を尊重して実践する人々です。
後の王朝では普通の思想ですが、この時代はスタート地点だったので異端でした。曹叡は祖父の曹操と一緒で法律重視の現実主義者。
きっと、曹叡は浮華の徒を見た時にびっくりしたに違いありません。古い例えですけど、日本人が「竹の子族」や「ヤマンバギャル」のメイクを初めて見た時と一緒ではないかと思います。
司馬懿・陳羣・曹真・曹休も曹叡と考えは一緒でしょう。5人は一緒になって浮華の徒を徹底的に抑え込みました。
しかし、魏の太和2年(228年)に曹休は呉(222年~280年)と石亭で戦って敗北して病気になりこの世を去ります。同5年(231年)に曹真が病死。陳羣も青龍4年(236年)に亡くなりました。
そして曹叡も景初3年(239年)に死んだので、残ったのは司馬懿だけになりました。
曹叡、司馬懿を疑う?
話はさかのぼって、魏の青龍2年(234年)に司馬懿は蜀の諸葛亮と対陣します。この戦は諸葛亮が途中で陣没したので撤退となります。魏の実力者となった司馬懿でしたが、先述したように同僚であり友人でもあった陳羣は2年後にこの世を去りました。
曹叡の後見役は司馬懿だけになったので、周囲の風当たりは強くなります。曹叡はある日、曹操の時代から仕えている陳矯に、「司馬懿は社稷の臣(国家の重臣)だろうか?」と質問しました。
問われた陳矯は「分かりません」と答えています。
また、杜恕という人物も司馬懿の弟が出仕したことについて、司馬懿の意向を忖度(そんたく)したと上奏していました。司馬懿は功績が出てくるにつれて、主君である曹叡や周囲の人々からも疑われるようになったのでしょうか?
司馬懿自身も隠していた本性が年月が流れるにつれて、隠しきれなくなったのかもしれません。
三国志ライター 晃の独り言
こうして見ると司馬懿と曹叡は協力関係でもあり、緊張関係でもあったのでしょう。浮華の徒を抑えた時は、協力したかもしれませんが、それはあくまで共同の仕事にすぎません。
曹叡は曹操に似て才能があるタイプ。一方、司馬懿も才能があり、みんなを引っ張っていくタイプ。主役と主役が一緒にいるため、実際は馬が合わなかったのではないでしょうか?
読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・狩野直禎『「三国志」の世界 孔明と仲達』(清水書院 1984年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。
司馬懿を心の底から愛している。自分は司馬懿と曹叡は仲が良かったと考えている人は、どんどんコメントを寄せてください。
関連記事:曹叡が孔明をDISる文章を発見!孔明はマゾでドけちだ!
関連記事:曹丕、それはちょっとやり過ぎじゃね?孟達への溺愛っぷりがヤバイ!