費桟とはどんな人?本当は異民族ではなかったアウトロー


 

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費桟(ひさん)は、揚州丹陽の人で一説に異民族山越人であるとされています。

山越は、浙江(せっこう)江蘇(こうそ)安徽(あんき)江西(こうせい)、福建の広範囲な山岳地帯に割拠し何名かの頭目を出しました。

 

烏桓族

 

しかし、この山越人というカテゴリ分けは奇妙なもので、匈奴(きょうど)(きょう)(てい)、或いは烏桓(うかん)鮮卑(せんぴ)のように詳しい記録が残っていません。

さらには、活発に活動するのも後漢末期から三国時代にかけてであり、その後は中国の歴史から消えてしまっているのです。

そもそも費桟とは本当に異民族だったのでしょうか?

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西暦216年、曹操に扇動され尤突と共に反乱を起こす

曹操に印綬を与えられ、従う費桟

 

費桟の名前が史書に登場するのは、ごくわずかでしかありません。

西暦216年の事、丹陽郡に割拠していた費桟と鄱陽郡(はんようぐん)尤突(ゆうとつ)曹操(そうそう)印綬(いんじゅ)をばら撒き魏軍に内応するように誘いをかけました。

当時の魏は献帝を擁していて後漢の庇護者という地位ですから、ばら撒いた印綬は雑号将軍の印綬か○○太守のようなものだったのでしょう。

赤鎧を身に着けた曹操

 

同年に曹操は第二次濡須口(じゅすこう)の戦いを起しますので、費桟と尤突は、その露払いの役で、成功したら儲けもので蜂起させたのです。

しかし孫権の側からすれば、今から曹操が攻めてくる前に国内に内応する勢力が出れば、致命傷になりかねず、対応が厳しくなるのは当たり前です。

そこで孫権は、陸遜(りくそん)(がさい)を派遣し徹底した掃討作戦(そうとうさくせん)に出ました。

陸遜

 

費棧には兵力が多く、逆に陸遜が与えられた兵は少ないので陸遜は旗幟(はたのぼり)の数を増やして大軍に見せ軍鼓と角笛を用意して山谷に(ひそみ)み、

突如として出現して軍鼓を激しく鳴らし突進して費棧を破ったとあります。

どうも三国志呉志を見ていると、尤突は賀斉と陸遜が共同で撃破し、費桟は単独で陸遜が破っているので費桟は尤突が破られた後で

陸遜が単独で破ったのだろうと推測します。

 

 

費棧は尤突より弱かった

孫権に抵抗する費桟

 

同時期に蜂起した費棧と尤突ですが、強さでは尤突が上回ったようです。

というのも呉志、賀斉伝では、尤突が民を化して賊となし、陵陽(りょうよう)始安(しあん)涇県(けいけん)の3県が突に呼応したとあるからです。

人民に魏についた方が得だと扇動し、それに呼応して3県が呼応するので相応に弁がたち、まだ人望もあったのでしょう。

 

一方で、陸遜伝に出てくる費棧にはそのような描写はありませんから、メインは尤突っぽいです。

そして賀斉と陸遜は、共に尤突を打ち破り数千を斬首したので、残りは震え上がって降伏精兵8000を得たとあります。

陸遜 剣と刀

 

その後、陸遜は賀斉と兵を分けて費棧を単独で討伐したわけですが費棧は積極的に戦っていません。

ただ数が多いだけで、山谷に潜んでいたのを、陸遜が旗幟で数を大きく見せて軍鼓を激しく鳴らして突進したら負けたというのですから

尤突が負けた事で、すでに怖気づき戦意も弱かったのでしょう。

 

呉の武将

 

山越は異民族ではなく越人と漢族の罪人の混血では?

 

さて、そもそも山越という異民族が後漢時代に存在したのかについて、kawausoは疑問を持っています。

というのも三国志諸葛恪伝(しょかつかくでん)には、山越について以下の記述があるからです。

梁山泊

 

①丹陽は地勢が険阻で、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と隣接し距離は数千里。

②住民は森林の奥で一生を過ごし、都市に出て長吏に面会した事もない。

③一種のアジール(聖域)で亡命者や極悪人も一緒に住んでいる。

④山では銅鉄を産出し、自ら甲冑と兵器を鋳て自給する

⑤武を好み戦に慣れ、猿のように木に登り、山道を魚の如く進む

⑥山から下り盗賊行為を繰り返し討伐軍を差し向けてもすぐに逃げてしまう

 

この記述には、山越の民俗や宗教、あるいは統治システムの記述がありません。

逆に地形が険阻(けんそ)なのを頼んで、漢族の亡命者や犯罪者が雑居している事が描かれ山では銅鉄が出て武器や防具に加工する事が分かります。

丹陽は古い時代の越の土地であり、越は越王句践剣のような優れた冶金技術を残した人々である事が知られていますから、

山越とは異民族ではなく、古代の越人の末裔で中央政府に服していない人々と色々な理由で中原から逃げてきた漢族の混血ではないかと考えます。

七星剣

 

費棧にしても、古代の越人の末裔であるか、或いは何らかの罪を犯し山深い丹陽の地に逃げてきた漢族であって、

異民族の首領でウンバボーな感じではないのではないかと思えるのです。

 

自給自足が出来ていなかった山越

空腹の三国志の兵士

 

もう一つ、山越を異民族というカテゴリに加えるのに違和感があるのは、山越は外界との交渉なしには自給自足できなかった点です。

正史三国志呉志諸葛恪伝では、諸葛恪が、呉郡・会稽・新都・鄱陽の長史に伝令を出し

 

①山越民で漢化している者は屯田に留めておき山へ返さない

②境界に防塁を備えて兵を置き襲撃に備える

③農作物は熟したら直ぐに刈り入れ、種もみも残さない

 

この3つを徹底させました。

 

すると食糧を得れず餓えた山越民は、山を下りて降伏してしまったのです。

鄧禹と兵士

 

こうしてみると、山越は略奪行為だけではなく常日頃から、鉄や銅を持って行って収穫物と交換したり屯田と山を往来する

漢化した山越民から間接的に食料を得ていたのが分かります。

漢族との交易無しには生きられない山越民は、どうあっても文化の交流と混血が起こらざるを得ず、匈奴や鮮卑、烏桓のような

漢族から完全に独立した別民族ではなかったように思えるのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

山越というのは、とても大雑把(おおざっぱ)に言うと梁山泊(りょうざんぱく)の巨大バージョンだと思います。

丹陽は山深く、簡単には大軍が入れない土地であり、また鉄や銅が取れるので元々、冶金技術(やきんぎじゅつ)で生計を立てる少数の人々がいて、

そこに色々な理由で逃げてきた漢族が入り込んで棲み分けをしたり、混血をしたりしながら数を増やしていき、

見た目は山に特化した生活のせいで服装が違うので、異民族のように見えたのではないでしょうか?

 

やがて数が増えたり、国が乱れたりすれば、彼らも自警して侵略に備え逆に食糧を奪いに出かけたりして、全体を束ねる首領も登場するわけで

それが、費棧や尤突のような存在として歴史に登場したのだと推測します。

 

参考文献:正史三国志

 

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