魏の五虎将軍に数えられる楽進は、張遼に次いで序列2位の名将です。
元々地味な存在で横山三国志でも目立ちませんが、蒼天航路において全身傷だらけで全身するタフガイの造形をつけられてからどんな困難でもブルドーザーのように前進する、男性受けするキャラになりました。
では、史実の楽進もやはり傷だらけなのでしょうか?
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短小にして烈しい胆力
蒼天航路の楽進は、元々は一兵卒から起用されていますが、これは史実に基づきます。
正史三国志では、楽進は短小で烈しい胆力があったと書かれていますが体が小さいので、きっと兵士には向かないと考えた曹操は、当初、張下の吏、つまり事務職として採用したのです。
それに対して、楽進は特になんとも言いませんでしたが、曹操が試しに兵力募集の任務を与えて故郷に返すと、楽進は曹操の予想を超える千名もの兵士を引き連れて戻ってきました。
曹操はこれを見て驚き、人の長となる才能があると見て軍の仮司馬・陥陣都尉に任命します。
仮司馬とは別動隊の事で、本体から離れて戦う遊撃隊を意味しています。
これは統率力が必要な仕事なので、大勢の募兵を実現したからこそ与えられた仕事です。
また陥陣都尉の陥陣とは、太公望の兵書、六韜三略に出てくる言葉で強暴で意気盛んな者の事です。
これも、短小にして激しい胆力とされる楽進の性格を裏付けていますね。
史実の楽進も、常に先登(先陣)に立って戦い、いかなる困難からも逃げない豪胆な人でした。
楽進は本当に傷だらけだったのか?
楽進が蒼天航路の描写のように、全身傷だらけだったかどうかは史書には出ません。
因みに全身に傷があった事が分かる武将もいて、呉の周泰は全身に戦いでつけた傷があった事が孫権との逸話で明らかにされています。
では、リアルな楽進は傷だらけでは無かったのでしょうか?それも即答するのは難しい問題です。
確かに史書には楽進が傷だらけである事を記した描写はありませんが、これでは傷だらけになっていても不思議はない描写はあるからです。
それが曹操が206年に献帝に対して、上奏した内容です。
楽進、及び于禁、張遼は、武力が大きく、計略を熟知していて、性質は忠義、義理を重んじています。
そして、戦争では戦う度に督卒(兵を励まして率い)強敵を相手には、ますます勇気を奮い、堅い城塞にも突撃し
故に落とせない城壁もなく、自ら軍鼓とバチを叩いて飽きる所がありません。彼らの功績を讃えて相応しき地位を授けて下さい
このように、楽進は、于禁、そして張遼に並ぶ名将とされています。
張遼と言えば、僅か800人の手勢で率先して矛を奮い孫権の10万の大軍を追い払い、于禁は曹操が張繍に叛かれた時も、味方がちりぢりになる中で傷病兵を見捨てずに庇い、張繍の襲撃に備えながら堂々と退却した人物です。
彼らと並び称されるという事は、楽進も身に無数の傷を受けながら奮戦し続けた人物と見て、間違いないでしょう。
また曹操軍も旗揚げ当初は、大して強くない弱小軍団であり総大将である曹操ですら、濮陽では呂布の軍勢に撃破されて青州兵が混乱。曹操は火の中を突き進んで落馬し左手を火傷し、司馬の楼異が助け起こし馬に押上げそのまま逃げています。
総大将の曹操すら初期はこうですから、楽進も自ら矛を取り剣を取っていくつも体に傷を作ったと考えて間違いないと推測します。
蒼天航路の楽進の壮絶な死
そんなタフガイの楽進の最期は三国志演義では合肥決戦の途中呉の凌統と戦う最中に、甘寧に弓で射られて矢で顔を負傷する所で終っています。死んだという描写はないのですが、それから三国志演義に登場しないうえ顔という致命傷になりやすい場所の矢傷ですから、戦死、もしくは戦病死が妥当な最期ではないかと思います。
蒼天航路の楽進は、甘寧の弓で射られるのではなく、呉の凌統の槍で腹を貫かれたものの、そのまま一歩も引かずに前進し、淩統に何度も頭突きをかますという形になっています。
蒼天航路でもやはり、その後死んだという描写はありませんが普通に考えて、腹を矛で貫かれれば死ぬでしょう。
史実の楽進は合肥の戦いを生き抜いて病死
三国志演義や蒼天航路の楽進と違い、正史の楽進は合肥でも生き残ります。楽進は、合肥の戦いの序盤から中盤は城を守って外に出ていません。その後、呉軍で疫病が大流行して、退却が秒読みになってから張遼と共に出撃し近衛兵1000名程度と孫権が居残っている場に攻撃を仕掛けます。
名だたる武将は、呂蒙、蒋欽、凌統、甘寧しかいませんでした。
どうして、総大将の孫権が真っ先に退却しなかったか疑問ですが、恐らく孫権が真っ先に逃げれば呉軍が崩壊する事を恐れたからでしょう。呉は、孫権の強力な統率力で、かろうじて一枚岩だった事が、この辺りの動きから見えてきます。
そんなわけで窮地に陥る孫権ですが、300人を連れて淩統が奮戦し、孫権が逃げる時間を稼いだので、張遼も楽進も孫権を討ち取れませんでした。というわけで楽進は合肥では死なず、二年後の西暦218年に病死します。
三国志ライターkawausoの独り言
ではどうして正史三国志では病死の楽進が三国志演義では矢で殺された事になっているのでしょうか?
三国志演義では、甘寧と淩統は、淩統の父の淩操が甘寧に射殺された事で、仲が険悪という設定になっています。このこじれた仲を解消するのが、楽進に攻撃されてピンチの淩統を甘寧が矢で援護して救うというエピソードなんですが、この為には甘寧が射殺してしまうキャラが必要になります。
そこで、そろそろ寿命が尽きる楽進を、少し手前で死んだ事にして、二人の仲直りに一枚噛んでもらう事にしたのでしょう。
もちろん、甘寧と淩統の仲直りは三国志演義の創作であり、史実では二人は死ぬまで和解する事はありませんでした。