凌統は呉(222年~280年)の将軍です。父の凌操が黄祖との戦いで戦死すると、15歳の若さで軍を引き継ぎます。その後は赤壁の戦い、合肥の戦い(第2次)などに参加して孫権から重用されました。
ところで凌統の没年には複数の説があるようです。そこで今回は凌統の没年に関する異説を解説します。
※記事中の年齢は数え年です。
「凌統 考察」
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正史『三国志』凌統伝
まずは正史『三国志』凌統伝からです。残念ながら陳寿は凌統の没年については記していません。ただし、49歳で亡くなったと書いています。
凌統が父を失って軍を率いることになるのは建安8年(203年)で15歳と正史に、はっきりと記されているので、ここから逆算すると凌統の生年は中平6年(189年)になるので没年は呉の嘉禾6年(237年)になります。
昔は人生50年と言いましたけど、凌統は思った以上に長生きしていませんね・・・・・・
正史『三国志』凌統伝との矛盾
呉の武将に駱統という人物がいます。小説『三国志演義』では諸葛亮に論破される人物なのですがキャラが濃くないのが難点。筆者もこの記事を書くまで全く覚えていませんでした。
脱線したので話を戻します。駱統は凌統の死後に軍を引き継いだ人物です。それだけなら問題ないのですが、引き継いだ時期が呉の黄武元年(222年)の夷陵の戦い以前の話です。
先述した筆者の計算が正しいとするなら、凌統はまだ存命しているはず・・・・・・さらに駱統も呉の黄武7年(228年)に死去。駱統伝の記述だけを信用すると、凌統は呉の建国以前に亡くなったことになります。享年は26~40歳と推定されます。
『建康実録』の凌統の没年
唐(618年~907年)の許崇という人物が執筆した『建康実録』という書物があります。三国時代(220年~280年)から南北朝時代(439年~589年)に建康に都を置いた王朝について書いています。
その中で凌統が建安22年(217年)に死亡したと記しています。これなら駱統伝と矛盾することはありません。また、凌統の生まれが中平6年(189年)であれば、彼の亡くなった時の年齢は30歳です。
凌統は関羽討伐や夷陵の戦いに参加した話がありませんので、合肥戦争の時の傷がもとで亡くなったと考えれば、打倒かもしれません。
この『建康実録』には欠点があります。(1)後世に執筆されているので創作が入っている可能性が高く信ぴょう性に問題あり(2)執筆者の許崇の経歴が分かっていない他にも様々な問題を抱えており、トンデモ書物として研究者の間では有名でした。だから、迂闊に中身を鵜呑みにすることは出来ないようです。
三国志ライター 晃の独り言 晃の仮説
以上が凌統の没年にまつわる異説でした。さて、ここからは筆者の仮説を出してみます。それは「凌統2人説」です。
元ネタは今から50年以上前に出された『水滸伝』の主人公の宋江が実は2人いたという推論です。呉には凌統という同姓同名の人物が2人いました。仮にA、Bとします。どちらが淩操の子か分かりません。
凌統Aは戦場で負った傷がもとなのか、従来病弱だったのか不明ですが建安22年(217年)に亡くなって軍を駱統に引き継がせます。これが駱統伝や『建康実録』の内容です。
凌統Bは健康体であり、ずっと存命して嘉禾6年(237年)にこの世を去りました。ただし地方官暮らしが多かったのか、重要な戦いには参加することがあまり無く生涯をおえます。
陳寿が正史『三国志』を執筆するにあたり参照した韋昭の『呉書』や他の歴史書は、2人の内容が混同しており、まるで1人の人物の業績のように書かれていた。これが真相と筆者は推測しています。
いかがですか?
※参考文献
・宮崎市定「宋江は2人いたか」(初出1967年 後に『宮崎市定全集12 水滸伝』所収 岩波書店 1992年)
・宮崎市定『水滸伝 虚構の中の史実』(初出1972年 後に『宮崎市定全集12 水滸伝』所収 岩波書店 1992年)
・柳田節子「1970年代における宋代農民戦争研究―方臘起義を中心としてー」(唐代史研究会編『中国歴史学会の新動向 新石器から現代まで』刀水書房 1982年)
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今回の記事に異論・批判・反論がある人はどんどん来てください。なんでもいいですよ!
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