曹叡が有能だったのは本当?曹叡を歴史上の人物でも例えてみる

2019年12月1日


 

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曹叡

 

曹叡(そうえい)(220年~265年)の第2代皇帝です。明帝(めいてい)とも呼ばれていますが、曹叡が有名なのでこの記事では曹叡で通します。

 

曹丕

 

曹叡は祖父の曹操(そうそう)・父の曹丕そうひ)と比べたら影が薄いという印象がありますが、調べてみると曹叡が祖父や親に負けない人材であると分かります。そこで今回は正史『三国志』をもとに曹叡がどれほど有能であったのか解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
当記事は、
「曹叡 有能」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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敗北ムードでも慌てることなし

北伐でやりあう曹叡vs孔明

 

魏の太和2年(228年)に蜀(221年~263年)の諸葛亮(しょかつりょう)が国境に侵入して、天水・南安・安定の三郡を攻略しました。諸葛亮の第1次北伐です。この時、三郡の民も呼応して反乱を起こします。

 

洛陽城

 

『魏書』という書物によると、この時に洛陽ではどんな対処をしてよいか分からずに大混乱に陥りました。しかし曹叡は全く慌てる気配が無く逆に落ち着いており、「諸葛亮は蜀の山を頼りに守備していたのに出撃してきた。これは『孫子』の兵法に合致した内容である」とコメント。

 

どういう意味なのかは『孫子』「虚実」篇という個所を読まないと分からないのですけど、要するに曹叡は本拠地が、がら空きと考察しているのです。

 

孫子の兵法 曹操

 

曹叡の祖父である曹操は生前、『孫子』研究をしており、自分で注釈を作るほど熱心でした。おそらく曹叡は祖父の注釈付きの『孫子』を読んで、諸葛亮の軍の弱点をすぐに見抜いたのでしょう。さらに曹叡は「諸葛亮は勝ちムードなので退却することを分かっていない。この機会を利用すれば我々の勝利は間違いない」と言って自ら出陣を決めます。

 

手柄を立てる張コウ(張郃)

 

こうして張郃(ちょうこう)曹真(そうしん
)
郭淮(かくわい)が出陣。諸葛亮の命令を無視して街亭の山頂に布陣していた馬謖(ばしょく)を撃破して勝利しました。

 

デマを流されても知らん顔をする曹叡

曹叡

 

諸葛亮の第1次北伐の防衛に成功した曹叡は洛陽に帰還します。だが、帰ってくるとビックリ!

 

なんと、都では自分が死んだというデマが流れていたのです。それどころか曹叡に従軍した部下が、かつて曹丕と後継者争いをした曹植を新皇帝に擁立しようと企てたという話まで盛られています。ところが曹叡は普通にピンピンして帰ってきたので、みんな唖然・・・・・・

 

卞夫人 曹操

 

曹操の奥さんである卞夫人(べんふじん)(当時は卞太后)も悲しんだり喜んだりと複雑です。卞夫人は曹叡にデマを流した人物を処罰しようと提案します。しかし曹叡は、「都の人がみんな言っていたんでしょう。どうやって処罰するのですか?」と逆に疑問視します。史料はそこで終わっているので、それ以上は分かりませんがおそらく処罰は行われなかったと筆者は推測しています。

 

なんとも心の広い男です!

 

曹叡を歴史上の人物で例えたら?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

曹叡を歴史上の人物で例えたら誰に該当するか?そんな史料があるのかと思うかもしれませんが、実はあるのです。

 

『世語』(別名『魏晋世語』)という史料でした。郭頒(かくはん)という人物が執筆したものであり、正史『三国志』では裴松之が注として持ってきています。『世語』によると曹叡と部下はもともと接触が乏しかったので、即位当時から曹叡がどんな人物なのか部下の間で噂になっていました。曹叡即位からしばらくすると、劉曄という人物が曹叡に会うことになります。

 

劉繇は一日中曹叡と会見して帰ってきました。みんなは「陛下はどんな人でした?」と尋ねます。

「秦(前778年~前206年)の始皇帝と前漢(前202年~後8年)の武帝の部類です」と劉曄は答えました。

 

始皇帝

 

始皇帝と武帝に共通しているのは具体的には(1)法律重視、(2)匈奴対策などです。劉繇が曹叡とどのような会話をしたのか史書は語っていませんが、おそらく上記の内容について話したので、このような評価が出たと考えられます。

 

三国志ライター 晃の独り言 全ては劉曄の計画だった

三国志ライター 晃

 

上記の劉曄(りゅうよう
)
の話には続きがあり、劉曄は最後に「ただし、資質について陛下は始皇帝と武帝には及びません」と言っています。

 

筆者は劉曄の言ったこと全てが真実とは思っていません。なぜなら劉曄は尋ねられても、本心を隠して別の答えを出す人物で有名です。『傅子』という書物によると、晩年はこの性格を曹叡に嫌われたことが記されています。

 

推測の域に過ぎませんが、おそらくこうだったのではないでしょうか?

 

劉曄は面会して話した時に曹叡の才能が親の曹丕を圧倒的に越しており、祖父の曹操に近いと感じたのかもしれません。ただし、同僚に真実を話すとビビったり、政変が起きる可能性もあります。

 

だから、例えに古い始皇帝と武帝を出したのです。彼らは劉曄からすれば約100~200年前の人物。現代の日本で例えるなら、明治・江戸時代の人間を例えに出すのと一緒です。さらに評価も一段階下げておけば、聞いた同僚は「そうですか。分かりました」しか返事が出来ません。

 

曹叡に面会出来たのは劉曄だけだったのですから、本当の曹叡を知っている人は誰もいません。

 

全ては劉曄の計画通りだったということでした。

 

※参考文献

・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫2010年)

・立間祥介『諸葛孔明―三国志の英雄たちー』(岩波新書 1990年)

 

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今回の記事に異論・批判・反論がある人はどんどん来てください。なんでもいいですよ!

 

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曹操孟徳

 

 

 

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