孫策は呉(222年~280年)の初代皇帝である孫権の兄です。
父親の孫堅が荊州の劉表と戦って討ち死にしたので、17歳の若さで後を継ぐことになりました。最初は孫堅のパートナーである袁術に頼っていましたが、後に独立していきます。今回は呉の基盤を築いた孫策が独立する経緯を解説していきます。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
「孫策 独立」
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17歳で父の後を継ぐ孫策
初平2年(191年)、孫策が17歳の時に父親の孫堅は荊州の劉表と戦って討ち死にします。孫策は17歳の若さで孫家を率いていくことになりました。孫策の家族は当時、江都にいたので迎えにいくことにします。そこで部下の呂範を使者にして徐州の長官である陶謙に頼みにいきました。
陶謙は袁術の勢力に入っていたので、あっさりと了承してくれると思ったのでしょう。しかし陶謙は孫策が袁術の命令で自分を調べにきたと勘違いします。可哀そうな呂範は捕縛されて激しい拷問を受けました。呂範はその後、部下によって助けられて家族も無事に孫策のもとに届けられます。孫策にとっては最悪なスタートでした。
袁術の傭兵として働くが失望する孫策
興平元年(194年)、20歳になった孫策は袁術に仕えました。袁術や配下の武将は、孫策が来てくれたことに対して大喜び。
「君のような息子がいれば思い残さずに死ねるよ」と袁術は称賛しました。後年、曹操は孫権に対しても同様のことを言っているので、孫兄弟は人からほめられる術でも持っていたようです。
袁術は以前から孫策を九江太守にしようと孫策に約束していました。ところが急に方針変えてしまい陳紀を九江太守に任命します。ちなみに、ここに登場する陳紀は陳羣の父ではなく同姓同名の別人です。やっぱり20歳の若者に太守は難しいと大人の判断をしたのでしょうか?
それからしばらくして、袁術は徐州の陶謙が亡くなったので徐州に攻撃を仕掛けることに決定します。だが、兵糧提供をめぐって地元の名士である廬江太守の陸康とケンカになりました。
袁術は孫策を呼ぶと「前に陳紀を九江太守に任命したけど、あれは間違いだった。廬江太守の陸康を討ってくれたら、廬江は君のものだ」と言いました。孫策は張り切って陸康を攻めて、興平2年(195年)に陸氏をほぼ壊滅にまで追いやりました。これだけ徹底的にやれば廬江太守は俺のもの、と孫策は思ったでしょう。
ところが、袁術は故吏の劉勲を新しい廬江太守に任命。やっぱり袁術は孫策には統治は難しいと感じたのかもしれませんね。
余談ですが「故吏」というのは、その一族に昔から仕えている子飼いの部下のことを指します。袁紹に領地を奪われた韓馥もかつては、袁家に仕えていた故吏の1人でした。2度も出世に失敗した孫策は、袁術に見切りをつけることにしました。
孫策独立、忘れなかった袁術への恩
興平2年(195年)に孫策は袁術と争っていた劉繇の討伐のために出兵します。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『江表伝』という史料によると、袁術は孫策が勝てると思っていなかったようです。
当時は劉繇だけではなく、王朗や厳白虎、許貢などの敵対勢力が呉にいたので失敗して逃げ帰ってくるのがオチであると見ていたのです。
しかし孫策は袁術の予想を上回る活躍をしました。わずか1年で劉繇を破り、厳白虎を討ち、王朗も追放に成功!最初に孫策についてきた兵士も千人程度だったのですが、気が付くと五、六千人に膨れ上がりました。まさにサクセス・ストーリーです。
領土が広がった孫策は、袁術が皇帝を自称したことを契機に袁術に対して絶交することを宣言しました。世話になった相手とはいえ、勝手に皇帝を自称することは許せなかったのです。
だからといって、孫策は袁術への恩を忘れていたわけではありません。袁術の死後、彼の家族は元・袁術配下の劉勲を頼りますが劉勲はすぐに孫策に討伐されました。
その時に袁術の家族は孫策に保護されます。皇帝を勝手に自称した袁術の家族なので、普通ならば殺されてもおかしくないのですが孫策は一切危害を加えませんでした。袁術の娘は孫権に嫁ぎ、息子は呉に仕えました。
孫策は少しの間だけでも、自分のことを可愛がってくれた袁術に対しての恩を忘れていなかったのでした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が孫策の独立までの解説でした。正史『三国志』の著者である陳寿は孫策が息子を後継者としなかったことを気に入らなかったようです。
もちろん史書には直接書いていません。だが、陳寿は孫策が実子を後継者にせず、孫権を後継者にしたことにより、「二宮事件」で陸遜を死なせた上に、孫晧という最悪な皇帝まで出現させて呉を滅亡させた、と言いたいようでした。
だけど、そういう発言は生きた時代が違うから出来ること。陳寿が生きていた時代は三国時代(220年~280年)が終了して、西晋(280年~316年)初期の平和だった中国。
孫策の生きていた時代は乱世。一国の滅亡が明日かもしれない時に、成人していない子を後継者にする余裕はありません。孫策が子供よりも弟の孫権に後を託したのは、愚かどこからむしろ英断と筆者は考えています。
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※参考文献
・宮岸雄介「裴松之の呉興亡論」(『論叢アジアの文化と思想』6 1997年)
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