関羽は蜀(221年~263年)の将軍です。蜀建国前には亡くなっているので、正確には後漢(25年~220年)末期の将軍が正しいです。
関羽は小説『三国志演義』では一騎当千の豪傑として描かれていますが、史実では顔良を討った功績しかなく、豪傑というよりも統治能力の高かった指揮官という感じでしょうか?
さて、そんな関羽ですが彼が馬超を殺そうとしたという話が残っています。今回は正史『三国志』をもとに関羽が馬超を殺そうとした話を紹介します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「関羽 馬超」
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関羽、荊州から瞬間移動する!?
建安19年(214年)に漢中の張魯の客将だった馬超は劉備に降伏してきました。劉備は手厚くもてなしてあげましたが、調子に乗った馬超は「玄徳」と劉備を字(あざな)で呼びます。
少し話はそれますが、中国人は親でもない人から本名を呼ばれることをすごく屈辱に感じます。例えば我々が劉備の本名を気安く呼んだら、その場でリアル・ファイト開始!それを防ぐためにあったのが字です。ただし、これも主従関係が勝手に呼び合ってよいものではありません。
劉備の場合は官職が左将軍だったので「劉左将軍」、曹操は丞相なので「曹丞相」が正しい呼び方です。馬超は主人に対してなれなれしいですね。さて、脱線したので話を戻します。関羽はどこで聞いたのか知らないですが、馬超の態度に「野郎、ぶっ殺してやる!」とキレてしまいます。
関羽はこの時期、荊州にいるのですけどスゴイ早い情報網です。一方、劉備は「馬超は切羽詰まって降伏したんだ。字を呼んだ程度で、なんで殺さないといけないんだ?そんなことで天下の人の理解が得られるか?」とコメント。
劉備の手紙も素早すぎる・・・・・・なんか、この話って変なのですけど?
劉備の近くにいた張飛は「俺が礼儀を教えましょう」と言った。翌日、宴会に招かれた馬超が劉備の方向を見ると関羽と張飛が護衛として立っており刀を握っていました。殺されると思った馬超はこれ以降、劉備を字で呼ぶことはなかったようです。
なぜ荊州にいるはずの関羽が劉備の護衛に回っているのでしょうか?まさか関羽は『ドラゴンボール』の瞬間移動の技を会得したのでしょうか?
案の定、正史『三国志』に注を付けた裴松之は、筆者と同じツッコミをしていました。この話は楽資という人が執筆した『山陽公戴記』という書物に記されている話であり、裴松之が「史籍の罪人」と呼んでいる書物の1つです。
裴松之は「なんで、関羽と張飛が立っているだけで、馬超は自分が殺されると分かるのだ?意味が分からん!」と言っています。確かに「超推理」ですね。『MMR』も顔負けです・・・・・・
気になる関羽
それでは実際の関羽はどうだったのでしょうか?
関羽が馬超のことを気にしていたのは事実のようです。
諸葛亮にわざわざ手紙まで送って「馬超ってどんなの?」と尋ねています。諸葛亮はこれに対して、「馬超は文武両道であり張飛に匹敵しますが、ヒゲさんの敵ではありません」と返答します。
「ヒゲさん」というのは諸葛亮が呼んでいた関羽のあだ名です。返信を読んで安心した関羽は、みんなに手紙を見せて回ったそうです。もしこの時代にLINEがあったら、確実にアップするでしょうね(笑)
三国志ライター 晃の独り言
以上が関羽が馬超を殺そうとしたお話でした。LINEの話で思い出したのですけど、先日横山光輝氏『三国志』のLINEビッグスタンプが販売されたそうです。1スタンプ250円。「だまらっしゃい!」「むむむ」などがあります。残念ながら私の好きな「孔明の罠だ」「わしを殺せるものがあるか」はありませんでした。だが、これを買わされる時点で孔明の罠にかかっているのかもしれません・・・・・・
※参考文献
・上谷浩一「関羽の死―『三国志』研究ノート<3>―」(『東洋史訪』15 2009年)
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