初平3年(192年)に董卓は部下の呂布の手にかかり殺されてしまいました。
さて、この呂布に董卓暗殺の話を持ちかけてきたのは王允です。彼は呂布と同郷出身(五原郡)であることから持ち掛けてきたのでした。この王允とはいったい何者でしょうか?今回は董卓暗殺の計画者である王允について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすくしています。
「呂布 出身」
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「王佐の才」と言われる王允
王允は前述したように呂布と同じ幷州太原郡の出身です。これは後に呂布を董卓暗殺に誘うことに役立ちました。王允の家は「太原王氏」と呼ばれており、隋(581年~618年)の時代まで栄えることになります。若い時に王允は同郷の儒学者の郭泰から「王佐の才」と評価されました。「王佐の才」は、名称の通り、主君を補佐することに長けている才能があるとのことです。
荀彧も若い時に同じ評価を受けていますので、おそらく人物評論のランク分けにそんな単語が使用されていたと思われます。
黄巾の乱で宦官の汚職を発見する王允
中平元年(184年)に太平道の張角が率いる黄巾軍が反乱を起こしました。この時、王允も官軍として出陣します。
黄巾軍を打ち破った王允は黄巾軍の陣から、とんでもない品物を発見しました。なんとそれは宦官の張譲と黄巾軍が裏で繋がっていたことを示す密書です。これは大手柄!これで党錮の禁で亡くなった人々の敵を討つことが出来ます。実は王允を評価した郭泰も宦官に弾劾されて、この世を去っていました。
洛陽に帰還した王允は後漢(25年~220年)第12代皇帝霊帝と張譲の前に突き出しました。
「お前がやったんだろう、吐くんだ!」と昭和の刑事風に問い詰めました。ドラマだったら、間違いなく王允の勝利は確定なんですけど、事実は思った以上にうまくいきません。
張譲は「今回の不祥事は本当に申し訳ございませんでした」と記者会見レベルの謝罪で終了します。だが、仕返しも忘れないのが張譲です。王允は投獄されて死刑判決がおりました。世の中は矛盾だらけです・・・・・・幸いにも同僚が助命嘆願してくれたので、王允は助かって牢屋から出ることが出来ました。王允にとっては、トホホな事件です・・・・・・
董卓による登用
中平6年(189年)に霊帝が亡くなり、大将軍と何進と宦官の間で激しい政治闘争が起きました。何進は宦官により殺されますが何進が呼んできた董卓が、この混乱を収拾します。
董卓の政治手法は後漢末期に宦官により邪魔者扱いされていた儒学者を登用することです。もちろん董卓は自分の腹心である将軍は要職に就かせませんでした。人気取り政策としては、バッチリです。
しかし董卓は下っ端には厳しく、知識階級にはヨイショする性格でした。董卓の儒学者に対しての過剰な譲歩は逆効果!王允たちから見れば、残酷なくせに儒学者にはヨイショしてくる董卓が異質なものにしか見えなかったのでしょう。
董卓って張飛に似ていますね・・・・・・
話を戻します。さて、王允は過剰な譲歩をするが、恐怖政治はする董卓を始末する決意を固めます。そのために仲間に引き入れる人物を探しました。白羽の矢が立ったのが呂布でした。彼は王允と同郷でした。また、董卓とは女性関係をめぐるトラブルもありました。
王允は呂布を呼ぶと説得します。ところが呂布は「話はありがたいのだけど、自分と董卓殿は親子の契りを交わしていますので・・・・・・」すると王允は「あなたの名字は『呂』、彼は『董』です。親子と言っても他人です。何を遠慮するのですか?」
それを聞いた呂布は「分かりました」と承諾します。
中国人は同郷の人物との繋がりを大切にするので、呂布は董卓との義理の親子の関係よりも王允との地縁を優先したのです。呂布を味方につけた王允は、こうして董卓暗殺に成功しました。
董卓残党の逆襲と王允の最期
クーデター終了後、王允は董卓の残党である涼州兵に対して城内で厳しい対応にでます。また、董卓が信頼していた蔡邕が董卓の遺体に泣きついたことから、今後の歴史書に何を書くか分からないとのことで、処刑を決定します。
このような行いが、城内にいた董卓軍の残党である胡軫・楊定の怒りを買います。胡軫は呂布とも仲が悪く、陽仁の戦いで呂布の裏切りにあったせいで部下の華雄を孫堅に討たれていました。
董卓の死からしばらくすると、李傕・郭汜が攻撃を仕掛けてきました。胡軫・楊定は王允と呂布に従う気は無かったのですぐに降伏。
これが原因で王允と呂布は敗北。呂布は袁術の領地まで闘争しますが、王允は引きずり出されて処刑されました。享年57歳。かつて「王佐の才」と言われた男は、董卓暗殺で全ての力を使い果たしたのでした。
三国志ライター 晃の独り言 20年続く三国志WEBマンガ発見!
この記事を執筆中にネットサーフィンをしていたら、「曹洪の三国志」というサイトを見つけました。このサイトの主である曹洪氏は2000年から『三国志漫画劉備くん』をWEB連載しており、今年で20年目に突入しているようです。20年もコツコツと連載するなんて尊敬に値します。筆者も曹洪氏のように、コツコツと記事を連載していきたいです。ネタが尽きないことを祈ります(笑)
※参考文献
・上谷浩一「呂布叛逆考―『三国志』研究ノート<2>-」(『東洋史訪』14 2008年)
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